平安幻想異聞録-異聞- 110 - 114
(110)
「待てよ」
腰をあげたヒカルの手を加賀がつかんで引き止める。
左手首。
痛みにヒカルが息をつめた。
その痛みに歪んだヒカルの顔を、加賀が見上げてのたまう。
「感心感心。怪我をしても左手ってな。おまえ、利き腕右手だったよな。利き腕は
武士の命だ。それだけは死ぬ気で守れって、オレが教えたもんな」
ヒカルは、その言葉に思い出した。
あの時、なぜ、自分が右腕ではなく、左腕に噛みついたのか。
無意識に、そちらを選んだのはなぜなのか。
『どんなにいい太刀を持ってたって、利き腕が使えなきゃ、武士なんてただの
役立たずなんだ。いくさ場でも、どこでも、それだけは死守しろよ』
そう、加賀に教えられていたからだ。
一方、ヒカルを逃がさないために、その怪我をしている方の手首をわざと掴んだ加賀は、
思いもよらぬことに動揺してた。
(おいおい、こいつの手首、こんなに細かったっけ?)
先に放った加賀の言葉に、何か気付いたように目を見開いているヒカルに、
思わず問い掛けていた。
「おい、お前、ちゃんと物食ってんだろうーな?」
「…食ってるさ!」
だが、その言葉の前のヒカルの一瞬の動揺を、加賀は見逃さなかった。
「よーーし、じゃあ、朝餉に何食ったか言ってみな!」
「う……」
ヒカルが言葉に詰まる。実は、今朝の朝餉は半分ほど口にしただけだった。
口にした分にしたって、疲れと寝不足で頭がぼんやりしていて、味も、何を
食べたかもよく覚えていないのだ。
そのヒカルの手首を加賀は掴んだまま、部屋の外に、庭に面した廊下へと
引っ張り出す。
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昼の日の明かり下で、改めてマジマジとヒカルの顔を見つめた。
(綺麗になった)
一瞬、そう考えた自分に驚く。
思えば、こいつの顎はこんなに細かっただろうか?
少し赤くなった目元にただよう色気はどうだ。
誰がこいつをこんな風にしやがったんだ。
わけのわからない怒りにかられて、加賀はことさらヒカルを乱暴に扱った。
突き飛ばすように、廊下の角の柱の方にその体を投げ、次いで、両手を使って、
ヒカルの背を柱に押し付けるようにして、押さえ込む。
「何するんだよ!」
暴れるヒカルの体を、背にしている柱ごと抱きしめた。
ヒカルがおとなしくなった。
「何か、困ってることがあるんだったら言えよ」
「別に…」
「聞かれちゃ困るようなことなのか?」
「そういうわけじゃないけど、本当に……」
「そんな深刻そうな顔して『そういうわけじゃない』もなにもないだろ。
似合わねぇんだよ、お前に深刻な顔なんて」
「ひでぇなぁ」
ヒカルが観念したのか、体重を加賀の腕の方に預けてきた。
そうすると、加賀よりちょっと背の低いヒカルは、加賀の緋色の狩衣の襟口の
あたりに頭をあずける事になる。
先ほど加賀を慌てさせた、奇妙な色香は、かき消えるように失せていた。
今、加賀の腕の中にいるのは、加賀がいつもよく知っている、童顔で無邪気で、
そのくせ剣の腕の立つ、小生意気な少年検非違使だ。
「本当に、どうでもいい事だよ。加賀にわざわざ話すようなことじゃない」
「佐為佐為って煩いぐらい騒いでたお前が、いきなり黙って座間の警護役に
なっちまうのがどうでもいいことか? それだけじゃない、お前この何日か
検非違使庁にも顔出してないだろ? 上に聞いても、知らぬ存ぜぬ『近衛は
座間様のご意向に沿って仕事をしているのだ』の一点張り。この一件、
検非違使庁の別当程度じゃ手が出せない、もっと上の方から手が回ってんじゃ
ないのか?」
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加賀が一息に言い放つ。ただし、他には聞かれないように小声で。
「三谷や、筒井も文句言ってるぜ。おまえが完全に検非違使の一般職務から
外されちまったせいで、市中見回りやら、街の掃除、穢れ払いの仕事に出来た穴を、
あいつらとオレとで埋めてるんだ。せわしなくていけねーよ。あいつらもお前に
言いたいみたいだぜ。『近衛のやつ、いったい何に巻き込まれてるんだ』ってな」
ヒカルは、うつむいた。そのヒカルの頭を、加賀が抱えるようにして引き寄せる。
「それでも、まだ、言えねぇか?」
ヒカルは検非違使の中でも仲のいい三谷や筒井のの顔を思い浮かべた。
加賀の胸にしがみつくようにして顔をうずめる。
「そうか……」
ヒカルは黙って頷いた。
宜陽殿の廊下を秋の涼風が吹き抜ける。
ヒカルの頭を抱きしめる加賀の腕に力がこもった。
あたたかい、とヒカルは思った。
「じゃあ、これだけは覚えとけ。オレはお前の味方だ。筒井も三谷もな。みんな
お前のことを心配している。だから、本当に助けが欲しいときには必ず、
オレか三谷や筒井に伝えろ。場合によっちゃ、多少の無理も聞いてやる。ひとりで
全部抱え込んで潰れるようなことにはなるなよ。お前はそんな柄じゃねぇんだから」
「加賀、じゃあさ」
「なんだ?」
「今、ひとつだけ、オレの無理聞いて」
「…言ってみな」
「寝たい。寝かせて」
「あのなーーっっ!」
怒鳴りかけて、加賀はやめた。加賀の胸元に顔を寄せているヒカルの、金茶の
前髪の間からわずかに覗くまぶたと頬に疲れの色が見える。
単にに秋の風の心地よさに眠気を誘われたのではない。疲労から来る眠気らしいと
気付かされたのだ。
腕の中のヒカルの体は、眠気のせいか普段より体温が上がっていて、まるで
ヤマネかリスのような、小動物の暖かさだ。
「来い」
ヒカルの手を引いて、加賀は少し離れた誰もいない部屋に連れ込んだ。
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部屋というよりは書庫だ。
「ここなら誰も来ねぇよ」
「怒られない?」
「平気だろ。座間が会議から上がってきたら教えてやるから寝とけ」
加賀が、多少ホコリのある床の上に腰を下ろす。
ヒカルも、寝る場所を探しているのか、少しキョロキョロしていたが、やがて、
加賀の後ろに横向きにペタンと座った。そのまま、加賀の背中に寄りかかる。
「おい……っ」
その辺で適当に寝っ転がるだろうと思っていた加賀は、ヒカルの体温と柔らかい頬の
感触を背中に感じてギョッとする。
「向こうにいくらでも場所あるだろうが!そっちで寝ろ!」
「加賀。オレの言うこと、多少無理でも聞いてやるって言ったじゃん」
「それとこれとは別だ!重い!暑苦しい!」
「やだー、オレここがいい。ここで寝るー」
口の中でブツブツ言いながらも加賀が黙った。
しばらくして、加賀の背中で小さくつぶやく声が聞こえる。
「加賀」
「なんだ?」
「ありがとな」
「そう思うんだったら、とっととお前の周りの問題片づけて、通常勤務に復帰しろ」
「うん…」
やがて、しんと静まりかえった薄暗い書庫の中に、スウスウと近衛ヒカルの
心地良さそうな寝息が聞こえ始めた。
じっとそれを聞きながら、加賀はヒカルと出会ったころを思い出す。
近衛ヒカルが検非違使として出仕するようにになったのは、1年半ほど前だった。
元服を終えたばかりの、まだほんの子供で、若い人間が多い検非違使でもここまで
年若いやつはなかなかいなかった。
ただでさえそうなのに、生来の童顔がさらにこの少年検非違使を幼く見せる。
おまけに、行動もふらふらふらふらと、危なっかしくて見ててイライラするのだ。
いくら幼くたって、いったん検非違使庁に入ったからには一人前の武官だ。
ここは一発ヤキをいれて、気を引き締めてやるかと、庭に引っ張り出して、木刀で
打ち合った。
そして、驚いた。
幼い顔に似合わない、剣の腕。しかも、けれん味のない、いい太刀筋だった。
聞けば、幼い頃に他界した父の代りに、祖父に物心付いたときから「おまえが
近衛の家の家長なのだから、恥ずかしくないように」と武芸に関してはみっちりと
しこまれたらしい。
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それ以来時折、近衛ヒカルと打ちあうが、検非違使仲間でも1,2を争う腕の
自分が、三本に一本は持っていかれる。
それだけではない、市中見回りなどの職務でも、加賀はヒカルと組まされる事が
多かった。検非違使は町中を見回りながら、時には町人達の言い争いや、
ケンカの仲裁もする。近衛ヒカルも、もちろん彼なりにその職務を一生懸命
こなそうとするのだが、いかんせん、あの童顔があだになる。ケンカに割って
入っていさめても、子供の言うことなど聞けるかと嘗められてしまうのだ。
だからか市中見回りでは、反対に泣く子もだまる強面で通っている加賀が、
ヒカルと組まされる。
そんな事情もあって、加賀とヒカルは検非違使の中でも、割りに一緒にいる
時間が長かった。
だが、苦にならなかった。むしろこの童顔の少年検非違使に、いろいろ教えたり、
職務の手助けをしたりするのは楽しかった。近衛ヒカルはふらふらしているように
見えても、仕事で手を抜いたことはなかったし、教えたことは一生懸命にこなした。
平たい話が、加賀はヒカルを気に入っていたのだ。
加賀は自分の背中によりかかるヒカルの方へ首を巡らせた。
視線を落とすと、投げ出された右手首が目に入った。
僅かに、何かでこすられたような、縛られたような痕がある。
それは手首を縄で縛られた罪人が、それをほどこうと暴れたときに出来る傷跡に
よく似ていた。
「おまえ、座間んとこで何されてんだよ」
思わず舌打ちがもれた。
頼って欲しいと思ったが、ヒカルがそれをよしとしないのなら無理強いは
できない。
だから、加賀は静かに、眠るヒカルに語りかける。
「早く帰ってこいよ、近衛。みんな待ってるんだぜ」
そして、誰が聞いているわけでもないのに、照れ隠しに付け加えた。
「お前がいねぇと、オレの剣の練習相手になる奴がいねぇんだよ」
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