Linkage 111 - 115
(111)
幹線道路から塔矢家のある住宅街へ向かう生活道路に入ると、快調に車は進んで行く。
「緒方さん、明日は碁会所に行きますか?」
「ああ、明日は行くよ。棋院で用を済ませた後だから、夕方になるだろう。……今日は済まなかったな。
わざわざ心配かけた上に、あんな……」
アキラは俯いてゆるゆると首を横に振った。
「……別に……。ボクが勝手に緒方さんの家に押しかけたんだし……」
顔を上げ、サイドミラーに映る自分の顔をぼんやり見つめるアキラは、消え入りそうな声で呟いた。
「……あの子……また碁会所に来るかな?」
「碁会所に来たということは、そう遠くに住んでる子でもなさそうだな……。だが、取り敢えずは
碁会所で待つしかないか」
「……緒方さんも気になりますか?」
「オレも碁打ちだぜ。そりゃ気になるさ。アキラ君の実力を知っているだけに尚更な」
アキラはふと緒方の方を向いて、声を上げた。
「ここで止めて!」
「……家はもうひとつ先のブロックだろ?ここでいいのか?」
言った後に緒方ははたと気付いた。
このまま塔矢家の門前まで車を進めるのは、状況としては不自然だった。
平日の夕方、碁会所でアキラと会った後に、緒方がアキラを塔矢家まで車で送ることは滅多にない。
それに加え、今朝、緒方は気まずい思いで師匠からの誘いを断ったのだ。
もし門前まで車を進めれば、既に帰宅している師匠が現れる可能性もある。
夕食の席に誘われるような状況になれば、さすがに今度こそ断れないだろう。
緒方はアキラの言葉に従い、車を路肩に止めた。
(112)
「策士だな、アキラ君は……」
シートベルトを外して苦笑するアキラにランドセルを渡してやると、緒方はハザードランプを点滅させ、
車のエンジンを切った。
「さっきも言ったが、くれぐれも気を付けて使ってくれよ。昨日のように眠れなくて気分が悪くなるだけなら、
それは一種の酩酊状態だ。酒で酔ってフラフラになるのと同じような感覚だな。幸い効き目が切れるのが
早い薬だから、しばらく我慢すれば元に戻ると思う。あと、うまく眠れたとしても睡眠時間は短くなるから、
その辺は覚悟しておいてくれ。明日、どんな感じだったか碁会所で報告するんだぞ。いいな!」
一気にそう言うと、緒方はアキラの頭をポンポンと撫でる。
「……例の少年のことで、思い詰めすぎるんじゃないぞ。寝る時は、もっと楽しいことを考えろよ。
跳び箱8段を成功させることとかさ」
緒方の言葉に微笑しながら頷くアキラは、そっとドアを開けた。
「ありがとう、緒方さん。明日、絶対碁会所で会えますよね?」
「薬のこともあるんだ。万難を排してでも行かないとな」
アキラは嬉しそうに微笑んで車から降りると、ランドセルを背負った。
「それじゃあ、明日!」
ドアを閉めて緒方に手を振ると、アキラは軽快な足取りで歩き出した。
途中、何度か振り返っては手を振るアキラに、緒方も手を振り返したが、アキラが角を曲がるのを見届け、
煙草の箱に手を伸ばす。
火を付け終えたライターを手の中で転がしながら煙をゆっくり吐き出すと、虚空に向けて呟いた。
「その少年が現れさえしなければ、アキラ君もオレもこんなことには……。いや、こんな状況に陥るのは、
どのみち時間の問題だったのかもしれんが……」
(113)
アキラは今時珍しいほど素直な性格の子供なのだろう。
それは常日頃緒方が感じていることだった。
ただ、その素直さが自己の欲求に対する忠実さと通底するものであり、時として他者を振り回す
我が儘さになり得るものであることも、経験上知っている。
だが、そんなアキラに振り回されることは、緒方にとって決して不快なことではない。
「焦る必要はないか……。やはりアキラ君はそう満更でもなさそうだったし……あれで結構
エピキュリアンなのかもな」
嫌々ながらも肉体の快楽を知ってしまった以上、アキラはその性格故に自己の欲求を満たす
方法を模索せざるを得ないだろう。
今日のことはきっかけになる、そう緒方は感じていた。
年齢的にも、アキラが自慰行為に目覚めたところで何ら不思議ではない。
だが、自慰行為に満足しきれず相手を求めることになれば、その相手は自ずと決まってくる。
(……後悔していないと言えば嘘だが……生憎、オレは禁欲主義を貫ける甲斐性なんて持ち合わせて
いないからな。……それにしても、セックスとドラッグを覚えた小学生に自制心が保てるのか?
大人のオレでもこのザマなのに……)
緒方は唇の片端をつり上げると、ライターをスラックスのポケットに入れ、煙草を灰皿に押し付ける。
チラリと時計を見遣ると6時半を僅かに過ぎたところだった。
(アキラ君は自分の部屋で制服を着替えている頃かもな……)
嫌でも目に入るであろう身体中の愛撫の痕跡に溜息をつくアキラの姿を想像し、緒方はひとりごちた。
「明日の体育は着替えで一苦労だな……ハハ。しかし……いい加減オレも腹が減ってきたな。とりたてて
食いたい物もないが……赤坂で蕎麦でもさっと食って帰るか」
舌打ち混じりに空腹を訴える腹部をさすると、ハザードランプを消し、差し込んだままのキーを軽く捻って
ロータリーエンジンの轟音を響かせた。
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「あっ、緒方先生!アキラ君なら奥にいますよ」
碁会所の入口の自動扉が開くなり、受付から市河の明るい声が飛んで来た。
「昨日は緒方先生がいないからって、アキラ君、来てすぐ家に帰るって……」
「そうなのか?それはアキラ君に悪いことをしたな」
市河の言葉をさりげなく受け流し、スーツ姿の緒方はアキラの席に向かった。
(我ながら、よくもまあいけしゃあしゃあと……)
常連客が碁を打つ机の間をすり抜けながら、思わず自嘲的な笑いを漏らす。
人気の少ない奥の座席で静かに碁盤に向かうアキラを見つけ、緒方は背後から近寄った。
アキラが常ならぬ様子であることは後ろ姿からも見て取れる。
緒方は元気のないその肩にそっと触れると、穏やかに尋ねた。
「昨夜はどうだった?」
「あっ、緒方さん。思ってたより早く来てくれたんですね」
アキラはどこか慌てた様子で盤上の碁石をジャラジャラと掻き集めると、緒方に僅かに微笑んだ。
(例の少年との一局だろうな……)
緒方はアキラの行為を問い質すことは敢えてせず、向かいの席に腰掛ける。
「心配だったから、棋院から猛スピードで車を飛ばして来たのさ。……で、どうだったんだい?」
「凄い勢いで寝ちゃいました。飲んで横になったら、すぐにウトウトしてきて……」
「それなら良かった。起きてからの気分は?」
「緒方さんの言った通りで、かなり早く起きちゃったんですけど、気分は特に悪くなかったなぁ……。
今も何ともないし」
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緒方がホッと胸を撫で下ろすのを見て、アキラはクスクスと笑った。
「体育もちゃんとできましたよ。8段はまだ跳べなかったけど……」
緒方は危うく「着替えは…」と口走りそうになる自分に気付き、一呼吸おいてから口を開いた。
「ハハハ、それは惜しかったな。……それはそうと、市河さんによるとアキラ君は昨日ここに来て
すぐ家に帰ったことになってるようだが……。口裏を合わせておいたぞ」
ニヤリと笑う緒方に照れ臭そうに頷くと、アキラは話題を変える。
「そういえば緒方さん、今度の日曜日に棋院で子供の大会があるんでしたよね?」
「ああ…『全国こども囲碁大会』か。オレは当日審判をやることになってるんだ」
2人の会話を遮って、市河が緒方に声を掛ける。
「緒方先生、指導碁お願いします」
「ヤレヤレ」と肩をすくめて、緒方は立ち上がった。
市河が受付に戻るのを確かめて、アキラの耳元で囁く。
「取り敢えず安心したよ。足りなくなったら連絡するんだぞ。まあ使い過ぎも困るんだがな」
アキラの肩をポンポンと叩いて笑うと、緒方は席を離れた。
「……『全国こども囲碁大会』か……」
アキラはそうぽつりと呟いて碁盤に向かい、再び先日の少年との一局を重苦しい表情で並べ始めた。
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