日記 111 - 115
(111)
ギリギリに来たお陰で、何とか直接アキラと顔を会わせずにすんだ。久しぶりに見る
アキラが何だか眩しくて、胸がドキドキした。ヒカルもアキラのように、真っ直ぐに背筋を
伸ばして碁盤の前に座った。
相手が、ギョッとしたようにヒカルを見た。自分の姿はそんなに酷いだろうか?ヒカルは
鏡を見ていない。今の自分の姿を見るのが怖かった。きっと変わってしまったに違いない。
懐かしい碁石の感触。落ち着く。それなのに何故か心が高揚した。頬が紅潮するのが
わかった。ヒカルはすぐに夢中になった。一手打つ度、髪が逆立つような感覚が全身を包んだ。
時折、目だけを上げてアキラの姿を確認する。その少しだけ見える真剣な横顔に、
何故だか安心した。
打ち掛けの合図と同時に、ヒカルは急いで席を立った。よろめきながら、人波に紛れて
対局室を後にする。後ろからアキラの呼ぶ声が聞こえたが、耳を塞いで逃げた。
(112)
隠れるようにそっと階段を登り、屋上へ出た。鋭い光が、ヒカルを無慈悲に射した。
切り裂くようなそれを避けるべく、建物の影に力無く蹲った。手をかざして、空を見上げる。
ヒカルは夏が好きだった。八月も半ばを過ぎて、日差しは弱まるどころかますます強く、
眩しい。それでも、朝夕に蜩の鳴く声が、夏の終わりが近いことを伝えている。
「夏が終わる……夏が終わっちゃうよ…」
膝に顔を埋めた。口にすると哀しくなる。自分を取り巻く、全てが変わっていく。
いつかアキラに言った言葉を思い出した。
―――――変わらないものなんてない
言うんじゃなかったあんなこと…。変わらないものなんてない。それはわかっている。
それでも、変わらないでいて欲しいものだってあったのに……。
今だって、自分の気持ちはちっとも変わっていない。アキラに逢いたい。触れたい。
「塔矢…塔矢…」
自分の肩を抱きしめる。いつもアキラにしてもらっていたように……
「…進藤」
名前を呼ばれて、顔を上げた。逆光で相手の姿はよくわからない。でも、その声はヒカルの
耳にずっと残っていた声だ。一番逢いたい人。よく顔を見ようと、目を眇めた。
恐る恐る伸ばした手を掴まれて、引かれた。ヒカルは簡単に前へ倒れ込んだ。そのまま
強く抱きしめられて、ヒカルは息が止まりそうになった。
(113)
抱きしめた身体のか細さに、アキラは狼狽えた。腕の中のヒカルが身じろいだ。アキラから
逃れようと身体を捩る。腕に力を込めた。抵抗を封じるのは容易かった。今のヒカルは
子供にだって勝てない。
「進藤、帰ろう…」
「や…いやだ…離せよ…」
ヒカルが呻いた。呼吸が荒い。たったこれだけ言うのに息を切らせている。
「駄々をこねるなよ…送るから…」
「やだ!離せってば!」
腕を振り回して、暴れるヒカルを押さえ付けた。途端に、ヒカルの身体が震え始めた。
「やだ、やだ、やだ!見るな!あっち行け!」
狂ったように叫ぶヒカルの唇に、自分のそれを押しつけた。ヒカルの身体は微熱を発して
いるのに、唇は酷く冷たかった。だけど、相変わらず柔らかくて甘い。
いくら暴れても、アキラは決してヒカルを離さなかった。
漸く落ち着いてきたのか、ヒカルは藻掻くのを止めた。躊躇うように、アキラの背に
手を回してきた。アキラはそれに応えるように、柔らかい髪を梳き、背中を緩やかに撫でた。
ヒカルはアキラの肩に顔を埋めた。痛々しいくらい細い肩をアキラは抱いた。
「帰るね?」
もう一度、今度は念を押すように訊いた。嫌だと言っても、無理やり連れて帰るつもりだった。
それでもヒカルは、顔を伏せたまま小さく首を振った。
「進藤!」
「…たい…」
「え?」
「最後まで…打ちたい…」
消え入りそうな声だった。
(114)
アキラは迷った。ヒカルの気持ちはわかる。しかし、こんな状態で終局まで持つのだろうか?
「打ちたい…」
アキラに身体を預けたまま、ヒカルは何度も繰り返して言った。仕方がない。
「じゃあ、終わったらボクと一緒に帰るね?」
ヒカルの顔を覗き込んで、視線を合わせた。視線が絡まる。だが、すぐにヒカルの目は
宙を彷徨い、アキラを避けるように伏せられた。
「…うん…塔矢と…帰…る……」
一言そう言って頷くと、ヒカルはアキラから離れようとした。アキラはそれを許さず、
却って強く抱きしめた。
「そろそろ、時間だ…」
ヒカルを支えながら、建物の中へ戻った。注意深く、一段一段をゆっくりと降りる。
自分にもたれ掛かるようにしているヒカルの横顔を盗み見た。伸びた前髪が、俯き加減の
目元を隠している。表情が読めない。くるくるとよく動く大きな瞳、キラキラと輝くような
笑顔。そのすべてが見えない。ヒカルに拒まれているような気がした。
(115)
自分の席について、再び石を持った。集中できない。どうやって、アキラを振り切って
帰ろうか…。走って逃げることも出来ない。
さっきアキラに触れられたとき、嬉しかった。でも…同時に怖いと思った。ものすごく
怖かった。抱きしめられたいと言う気持ちと、逃げたい気持ちがヒカルの中でせめぎ合っていた。
頭が混乱してきた。
「ありません」
その声に、ヒカルは現実に引き戻された。相手は、自分の石を片付けて、さっさと席を
立った。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。こんな身体で相手を動揺させて…。おまけに
後半は上の空だった。
アキラの方に目をやった。ヒカルの対局が終わったことに気づいてはいない。ヒカルは、
静かに部屋を出た。
エレベーターに乗り込んだ途端に、ヒカルはペタリと座り込んだ。たったの数十秒が
立っていられない。自分はもうダメかもしれない。
―――――死んじゃうのかな…
それもいいかもしれない。アキラに逢えないのは辛い。けれど、逢ったらもっと辛くなった。
キスされても抱きしめられても、以前のように幸せな気持ちだけを持つことが出来なかった。
アキラを怖いと感じるなんて…。それなら、死んだ方がましだ。そうすれば、佐為にも
逢えるかもしれない。
馬鹿なことを考えているなと自分でも思う。身体が弱っているせいだ。それもわかっている。
でも……
エレベーターの降下するスピードが緩やかになり、ガタンと揺れた。人が乗ってくるのだ。
ヒカルは、壁を支えにしてよろよろと立ち上がった。
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