日記 115 - 117
(115)
自分の席について、再び石を持った。集中できない。どうやって、アキラを振り切って
帰ろうか…。走って逃げることも出来ない。
さっきアキラに触れられたとき、嬉しかった。でも…同時に怖いと思った。ものすごく
怖かった。抱きしめられたいと言う気持ちと、逃げたい気持ちがヒカルの中でせめぎ合っていた。
頭が混乱してきた。
「ありません」
その声に、ヒカルは現実に引き戻された。相手は、自分の石を片付けて、さっさと席を
立った。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。こんな身体で相手を動揺させて…。おまけに
後半は上の空だった。
アキラの方に目をやった。ヒカルの対局が終わったことに気づいてはいない。ヒカルは、
静かに部屋を出た。
エレベーターに乗り込んだ途端に、ヒカルはペタリと座り込んだ。たったの数十秒が
立っていられない。自分はもうダメかもしれない。
―――――死んじゃうのかな…
それもいいかもしれない。アキラに逢えないのは辛い。けれど、逢ったらもっと辛くなった。
キスされても抱きしめられても、以前のように幸せな気持ちだけを持つことが出来なかった。
アキラを怖いと感じるなんて…。それなら、死んだ方がましだ。そうすれば、佐為にも
逢えるかもしれない。
馬鹿なことを考えているなと自分でも思う。身体が弱っているせいだ。それもわかっている。
でも……
エレベーターの降下するスピードが緩やかになり、ガタンと揺れた。人が乗ってくるのだ。
ヒカルは、壁を支えにしてよろよろと立ち上がった。
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エレベーターのドアの向こうに立つ人物を見て、ヒカルは自分が不思議と安らいでいくのを
感じた。
「緒方先生…」
緒方は何も言わない。厳しい視線をヒカルに注いでいる。
彼は素早く中に乗り込むと、ドアを閉めた。崩れそうなヒカルを抱き寄せ、低い声で、怒鳴った。
「馬鹿か、お前は…!」
口調こそきついが、ヒカルが心配だと全身で語っている。眼鏡の奥の眼差しは、ヒカルを
いたわっていた。
ヒカルは何だか、嬉しくなって小さく笑った。
「先生…映画のヒーローみたい…」
「何言ってんだ。オレは怒っているんだぞ?」
「オレのピンチにいっつも来てくれるよね…」
ヒカルは、緒方の胸に身体を預けた。そこは、温かくて、気持ちがよかった。
「………帰るか…」
緒方の言葉に、ヒカルは黙って頷いた。
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「やっぱ、オレって馬鹿なのかな…」
シートに深く身体を沈めて、ヒカルは呟いた。
「女の子じゃないんだからさ………いつまでも落ち込んだってしょうがないじゃん…」
相手が知らない人間なら、もっと気持ちが楽だったかもしれない。それとも、今以上に
辛いのだろうか。だが、大好きな和谷に乱暴されたという事実は、ヒカルを深く傷つけていた。
「男も女も関係ないだろ……」
緒方の返事は素っ気ない。
「オレが悪かったのかな…?」
知らないうちにアイツを煽っていたのかな?甘えたり、抱きついたりしちゃいけなかったのかな?
だけど、本当の兄弟みたいに仲良しだったから…大好きだったから……。
「…そうかもな…」
「……冷てェなぁ…」
緒方のつれない答えにヒカルは、苦笑した。でも、ちゃんとわかっている。ヒカルを
思ってくれているから冷たいのだ。
「ゴメンね……先生…」
本当は、緒方にも甘えてはいけないのだ。こうしている今も、緒方に強い忍耐を強いているのかも
しれない。
――――――けど……オレにはもう先生しかいない…
緒方は、何も言わずに車を走らせた。
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