Linkage 116 - 120
(116)
「アキラ、オレと打たないか?」
金曜日の夕方、相も変わらず碁会所の奥の席でひとり碁盤に向かっていたアキラに、
芦原が声をかけた。
芦原もアキラが先日打った謎の少年との一局については知っているが、その声は
いつもと変わらぬ呑気なものだった。
芦原が気を遣っているのかどうか今ひとつ量りかねるものの、朗らかに誘いの言葉を
かけてくれる芦原の存在をアキラは内心有り難く思っている。
だが、そう思いながらも、やはり誰かと一局打てる精神的余裕は今のアキラにはなかった。
「……ごめんなさい、芦原さん。ボク、今は……」
元気のない声で謝るアキラの様子を離れた席から見ていた常連客が、気を利かせて
芦原を呼ぶ。
「芦原先生、指導碁お願いできますかねェ?」
芦原は客の方を振り向いて「はい、いいですよ」と屈託なく答えると、アキラに
向き直った。
「そうかァ、残念だな〜。じゃあ、今度打とうな!」
小さく頷くアキラに微笑むと、芦原は客の席に向かおうと踵を返した。
その目の前に緒方が現れる。
「なんだ、芦原も来てたのか」
「うわァッ!いきなり現れるなんて、びっくりするなァ」
煙草の煙を芦原に向かって吹きかけると、緒方は呆れたように鼻を鳴らした。
「フン、なんだその言い種は……。今日はどうした、芦原?」
「どうしたって、これから指導碁ですよ」
「そうか。頑張ってくれよ、芦原センセイ!」
緒方はそう言って笑いながら芦原の肩を叩くと、芦原の横をすり抜けてアキラの
向かいの席に腰掛けた。
(117)
「持ってきたぞ。今度は1週間分だ」
そそくさと碁石を片付けるアキラに小声で語りかけると、緒方はスーツのポケットから
小さな包みを取り出す。
「ありがとう、緒方さん」
僅かに微笑んで制服のポケットに包みをしまうと、アキラは碁石を片付ける手を止め、
緒方の顔をじっと見据えた。
「これ、幾らするんですか?タダで貰うのは……」
「ハハ、冗談はよしてくれよ、アキラ君。大した額じゃないんだから、変に気を遣わなくていい。
なくなったら、また昨夜のように連絡してくれ。次回以降も1週間分ずつ渡すからな」
「でも……」
「いいんだよ。金のことは今後一切口出し無用だ。いいな?……さて、オレもこれから指導碁だ。
予約が入っているからな」
緒方は言い終わるや立ち上がり、席を離れた。
反論のタイミングを逸したアキラは仕方なく溜息をつくと、中断していた碁石の片付けを再開する。
その瞬間、背後から緒方が音もなく近寄り、身を屈めてアキラの耳元に唇を寄せた。
「おっと、動かないでくれよ。後ろのお客さんに怪しまれるからな」
小声で囁いて、アキラの白い項を撫で上げた。
緒方はぴくっと背筋を震わせるアキラの敏感な反応ぶりに満足げに薄く笑うと、唇でアキラの耳朶を啄む。
「そういう悩ましい表情をされると弱いんでね」
そう言い様、啄んでいた耳朶をペロッと舐め、緒方は身を起こした。
全身を電流が駆け巡るような感覚に、アキラは思わず身を捩る。
そんなアキラの肩をポンポンと叩くと、緒方は何事もなかったかのように穏やかに笑いながらアキラの
背中越しに語りかけた。
「じゃあな、アキラ君」
一瞬の狼狽の後、アキラが椅子から立ち上がって振り向くと、既に緒方は受付近くの席で指導碁の
予約客と雑談を交わしていた。
アキラの視線に気付いているであろう緒方は、まるでアキラを無視するように何食わぬ顔で客と
談笑している。
アキラは悔しさに唇を噛み締めると、渋々腰を下ろした。
(118)
普段盤上に集中しているときは周囲の雑音など決して耳に入らないアキラだったが、
今は背中越しに聞こえてくる緒方と客との他愛もない会話が嫌でも気になってしまう。
緒方の舌が触れた耳朶は熱を帯びていた。
(緒方さん、どうしてあんなことを……)
訳もなく碁笥の中に手を突っ込むと、碁石を掬っては落とし、アキラは深い溜息をついた。
──緒方さんもこれから指導碁ですかァ?
ふと、緒方の席からそう遠くない所でやはり指導碁をしていた芦原の声が耳に入る。
アキラは思わず手の中の碁石をギュッと握り締めると、耳をそばだてた。
──ああ。芦原、終わったらメシでも一緒に食うか?
──いいですよ〜!それならアキラも誘いましょうか?
──アキラ君は自宅で食べるだろうし、オレとオマエの2人でいいんじゃないか?
──そうですね。じゃあ、終わったら声かけてくださいよ。
──わかった。
緒方と芦原の、それはごく他愛もない会話だった。
気さくに言葉を交わす2人は、この会話をアキラが聴いているとは思ってもいなかっただろう。
事実、母親が自宅で夕食を用意して帰りを待っているのだから、アキラは碁会所から
真っ直ぐ自宅へ帰るつもりでいた。
緒方はそのことをよく理解していて芦原にアキラを誘う必要はないと言っただけだろう。
アキラとしては、緒方の発言に他意はないと信じたかった。
それでも、アキラの視線をわざと無視する先刻の緒方の態度を思うと、アキラは緒方に対して
どこか疑心暗鬼にならざるを得ない。
(……緒方さん……)
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アキラは背を丸めて手の中の碁石をそっと碁笥に戻すと、両手で胸を押さえた。
耳朶の熱が全身に広がったのだろうか、やけに身体が火照る。
理由もわからないまま疼き始める下半身に、アキラは羞恥心から顔を紅潮させた。
幸いなことに、股間はまだ制服のズボンを押し上げるような状態には至っていない。
(今日はもう帰ろう……)
盤上に残った碁石を碁笥にしまうと、アキラはスウッと息を大きく吸って立ち上がった。
緒方や芦原が指導碁を打つ机の間をすり抜け、一直線に受付に向かうアキラを芦原が呼び止める。
「アキラ、もう帰るのかー?」
アキラは芦原の方を振り返って小さく頷いた。
「じゃあね、芦原さん。…………緒方さんも……」
そう言いながら緒方を一瞥すると、そそくさと受付に向かい、市河からランドセルを受け取った。
「今日は随分早く帰るのね」
「うん、ちょっと……。土日も来るね」
「気を付けて帰るのよ、アキラ君!」
市河の言葉にニコッと微笑んで頷くと、アキラはランドセルを背負いながら足早に碁会所を後にした。
緒方は終始アキラに視線を向けることなく指導碁を打つ盤上を見つめ続けていた。
ただ、アキラが出ていった自動扉が閉まると同時にパチリと白石を打つと、誰にも気付かれない程度に
肩をすくめて苦笑を噛み殺した。
(120)
自宅に帰り、着替えと夕食を終えたアキラは自室で机に向かっていた。
学校の宿題になっている社会のプリントを手際よく終わらせ、来月受験する海王中学の
過去問題集を開く。
壁の時計をチラリと見ると、昨年の算数の問題を解き始めた。
(計算量が多いけど、そんなに難しくないや。試験時間が余っちゃうんじゃないかな?)
案の定、全問解き終えても残り時間は十分にあった。
計算を見直しながら、ふと夕方の碁会所での出来事を思い出す。
(緒方さん、どうしてあんなこと……)
緒方に触れられた項から耳朶にかけてが僅かに火照った。
「あっ!計算間違えてた」
普段ならまずしない単純なケアレスミスだ。
慌てて消しゴムで間違えた箇所を消すと、アキラは正しい値を書き入れた。
(こんな風に過去も消しゴムで消して修正できればいいのに……)
進藤ヒカル──彼に会わなければ、自分と緒方との関係にこれほどの変化は
生じなかったのではないか。
確実に変わりつつある状況に、言いようもない不安が胸をよぎる。
これから先、髪を撫でたり、軽く肩を叩いたりする緒方の何でもない行為にすら、
あれこれ勘繰ってしまうのかもしれない。
(考えない方がいいんだ。考えすぎるから……)
計算用紙の上にポツポツと散らばる消しゴムのカスを指で掻き集めてごみ箱に捨てると、
椅子の背に凭れてゆっくりと息を吐き出した。
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