裏階段 ヒカル編 116 - 120


(116)
触れてはならないものに触ようとしている、踏み込んではならない場所に踏み込もうとしている。
誰の足跡もない真っ白な雪原に荒々しく不作法に入り込みたいという衝動を抑えられない。
壁に押し付けられ、怯えたようにオレを見上げた進藤の例えようもない光を浮かべた大きな瞳が、
年令に比べて幼い顔立ちの中で、ひどく艶かしく感じた。


気を失いかけたアキラを乱暴に揺さぶり起こす。
「…用は済んだ。さっさと帰れ」
アキラは空ろな表情で汗で冷えた体をぶるりと震わし、のろのろと体を起こす。
オレも全裸のまま起き上がって脱ぎ捨てた自分の服の上着の内ポケットから煙草を取り出し、
口に銜えて火を点け、壁にもたれてアキラが自力で服を着るのを苦々しく眺めながら煙りを吐く。
「緒方…さん」
シャツのボタンを留めながらアキラが掠れた声で言葉を発した。
「………ボクをどうこうしたところで、お父さんは苦しんだりはしません。
……苦しむとしたら唯一、碁を打てなくなった時、ただそれのみだからです…」
「……」
どう答えたらいいのか分からなかった。
オレとアキラ自身のどちらを哀れんでいるのか判らなかったからだ。
アキラはベッドから下りて残りの衣服を元通りに身につけるとオレのすぐ前に立った。


(117)
オレに両手を延ばし、オレの両頬を包む。
「…心配しなくても、お父さんにはこれ以上進藤を近付けさせません…
だから安心していてください」
アキラは口にしている煙草を一瞬指先で挟んで抜くと、軽くオレに口付けて煙草を元に戻す。
「…週末、またここに来てもいいですか…?」
「…好きにしろ」
そう答えてやると、望んだものを与えられたように嬉しそうに笑む。
さっきのオレの言葉などまるで聞かなかったことにしているようだった。
一度そうと定めたらアキラの中の決定は本人以外覆すことは出来ない。
そんなアキラはやはりどうしようもなく魅力的だった。
進藤が持つものとはまるで違う妖しさに溢れている。むしろ進藤と競い合うように
いつのまにかそれは一層増していた。
煙草を灰皿に押し付けると今し方服を着たばかりのアキラを再びベッドに押し倒す。
アキラもまたオレの首に両腕を回し強く抱き着いて来る。
互いの魂を喰い合うように激しくキスを交わす。
アキラの中に今までと違うものが育っている気がした。
そしてオレの中にも、先生の中にも。

全て進藤に――進藤が関わっているであろうsaiという存在によって、それぞれが今まで
自分の奥底深くに眠っていたものにようやく気が付いてしまったのかもしれない。
そして、それを知らなかった頃にはもう戻る事はできない。


(118)

「…ありません」
室内灯に明るい色彩の前髪を光らせ、進藤が頭を下げた。
比較的早い段階で勝負がついたが、進藤の背後にある明かり取りの窓の向こうは
もう真っ暗だった。網戸を通して微かに波の音がする。
こちらに勝とうという激しい気負いがなかったのが良かったのかもしれない。
軽く感想戦をしながらも何度も「あれエ?」といった風に進藤はしきりに頭を掻き、首を傾げる。
「…やっぱ緒方先生、強エや」
「オレを誰だと思ってる」
えへへ、と進藤は笑いながら石を片付ける。
「…お前と打つのはこれがニ度目だったが…、不思議だな、もう何度も打ってきたような
気がするな」
「えー、そお?」


(119)
saiの打ち方に似ている、とは言わなかった。言っても仕方のない話だ。
一時期同じような事をしきりに気にしていた様子のアキラも、もうそれは口にしなくなった。
saiの存在についてはもう噂すら久しく聞かない。
まるで夢だったように、何の痕跡もどこにも残っていないのだから。
棋譜という戦いの、「強さ」の痕跡以外は何も。

ただ一つ解釈の方法があるとすれば、saiは秀策の棋風を色濃く受け継いでいて、そして
進藤も相当な秀策研究者であるということ。
ネットか何かで進藤が同じ嗜好を持つsaiと知り合い、ほとんど寝食を共にするような――実際に
合宿等を行ったかは別にして、そのくらいの近しい間柄で共に2人で囲碁の鍛練をしてきた、
と考える事はできる。
四六時中進藤の行動を把握しているわけではないので言い切れないが
進藤の様子から現在saiと接触している気配は伺えない。
saiが日本には居ない可能性もある。先生が日本を離れて海外で活動しているのは
saiを探しているからだとアキラは感じている。


(120)
「お父さんは、後悔しているんです…」
アキラがそう漏らした事がある。
「ネットという世界に、もっと早く触れていれば、saiに限らずもっと強い者らと
出会えたかもしれない、もっと早くsaiに出会いたかったと思っているんです」
そういうアキラも、かなり国際戦で打つ機会を増やし、実績を伴って父親と共に確実に
その名をアジアに広めつつある。

そして、その先生の人生を大きく変えたきっかけとなった進藤は、計りしれない潜在能力を持ちながら
今ひとつ開花する機会を選び切れていない、そんな気がする。
片鱗を見せながら、大輪の花を咲かせる前に朽ち果ててしまう才もある。
アキラという、同年代で華々しく開花している存在があるだけに進藤の停滞が浮き彫りにされてしまう。
特定の師匠が居ない事が、勝負事以外の精神面での支えがない事が影響しているのではと思い、
それとなく進藤に「オレのところに来ないか」と誘ってみた事がある。
かつて先生がオレに語ったように、「共に学ぼう」という意味で。
だが進藤はやはり「へへっ」と曖昧に笑って誤魔化すだけだった。



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