日記 116 - 120


(116)
 エレベーターのドアの向こうに立つ人物を見て、ヒカルは自分が不思議と安らいでいくのを
感じた。
「緒方先生…」
緒方は何も言わない。厳しい視線をヒカルに注いでいる。
 彼は素早く中に乗り込むと、ドアを閉めた。崩れそうなヒカルを抱き寄せ、低い声で、怒鳴った。
「馬鹿か、お前は…!」
口調こそきついが、ヒカルが心配だと全身で語っている。眼鏡の奥の眼差しは、ヒカルを
いたわっていた。
 ヒカルは何だか、嬉しくなって小さく笑った。
「先生…映画のヒーローみたい…」
「何言ってんだ。オレは怒っているんだぞ?」
「オレのピンチにいっつも来てくれるよね…」
ヒカルは、緒方の胸に身体を預けた。そこは、温かくて、気持ちがよかった。
「………帰るか…」
緒方の言葉に、ヒカルは黙って頷いた。


(117)
 「やっぱ、オレって馬鹿なのかな…」
シートに深く身体を沈めて、ヒカルは呟いた。
「女の子じゃないんだからさ………いつまでも落ち込んだってしょうがないじゃん…」
相手が知らない人間なら、もっと気持ちが楽だったかもしれない。それとも、今以上に
辛いのだろうか。だが、大好きな和谷に乱暴されたという事実は、ヒカルを深く傷つけていた。
「男も女も関係ないだろ……」
緒方の返事は素っ気ない。
「オレが悪かったのかな…?」
知らないうちにアイツを煽っていたのかな?甘えたり、抱きついたりしちゃいけなかったのかな?
だけど、本当の兄弟みたいに仲良しだったから…大好きだったから……。
「…そうかもな…」
「……冷てェなぁ…」
緒方のつれない答えにヒカルは、苦笑した。でも、ちゃんとわかっている。ヒカルを
思ってくれているから冷たいのだ。
「ゴメンね……先生…」
本当は、緒方にも甘えてはいけないのだ。こうしている今も、緒方に強い忍耐を強いているのかも
しれない。
――――――けど……オレにはもう先生しかいない…
 緒方は、何も言わずに車を走らせた。


(118)
 「オレ…先生の魚が見たい…」
もうそろそろ、ヒカルの自宅に着こうかというときに、ヒカルがぽつりと呟いた。
 どうしようかと一瞬だけ迷った。が、気がついたときにはもうハンドルを切っていた。

 駐車場に車を止めると、緒方はヒカルを抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこというヤツだ。
育ち盛りの少年とは思えぬ程の軽さに、目眩がした。
「やだよ…恥ずかしいよ…」
と、最初は抵抗していたヒカルだが、緒方がそれを無視して歩き始めると、諦めたのか
大人しく抱かれていた。
「人に見られたら、恥ずかしいよぉ…」
隠れるように、緒方の胸に顔を伏せた。無意識の行動なのだろうが……苦笑した。
 ヒカルは、もう少し自分が他人の目にどう映るのかを考えた方がいいのではないか?と、思う。
“恥ずかしい”と、顔を伏せるその仕草が…あどけない笑顔が…どんなに心を波立たせるか、
おそらく自覚してはいないだろう。それはヒカルの責任ではないが、そのために、今、
辛い思いをしているのだから………。
 だが、緒方は、ヒカルを傷つけた相手を責める気持ちにはなれなかった。むしろ、同情する。
あんなやり方では、ヒカルが手に入らないことは、わかっていただろうに……。誰かは
知らないが、今どうしているのだろうか…。


(119)
 緒方は、ヒカルを水槽の側の椅子の上に下ろした。ヒカルは、早速熱帯魚に見入っている。
すっかり痩せて余計に目立つ大きな瞳で、うっとりと見つめていた。緒方は、そんなヒカルを
彼の脇に立って見ていた。
 ヒカルが緒方を振り仰いで言った。
「先生、餌あげてもいい?」
「お前―――――」
魚の餌より、自分のことを心配しろ――――と、言いかけて、止めた。久しぶりに見た
ヒカルの笑った顔なんて…。
「いいよ…」
ヒカルは、嬉しそうに容器を取ると、少しずつ慎重に餌を落としていった。

 「あのさぁ…今日ここに泊めてくれないかな…?」
視線を水槽に向けたまま、ヒカルは緒方に訊ねた。ヒカルが何を求めているのか簡単に
推測できる。でも……。
「だめだ。病人を外泊させるわけには、いかんからな。」
「オレ…別に病気じゃ…!」
ヒカルは、抗議するように緒方に向き直る。さらに言い募ろうとするヒカルの言葉を
緒方は遮った。
「どうだか…お前は嘘つきだからな…」
緒方の冷たい物言いに、ヒカルは傷ついたような表情を浮かべた。
「……ウソなんか…ついてないよ…」
俯いて、小さく呟いた。
「お前、俺には『大丈夫』『食べてる』って言っていたな?」
どこが、『大丈夫』で『食べている』んだ。そんな青い顔をして…子供みたいに軽い身体で…。
「……先生…怒ってるの?」
今にも泣きそうな声に、溜息をついた。


(120)
 「…お前、ちゃんと眠れているのか?」
さっきの言い方は意地が悪かったかもしれない。頭を軽く振り、ヒカルに問いかけた。
「うん!」
ヒカルが即答した。やましさのかけらもない。クスクスと笑った。
「眠るのだけは…薬あるし…」
「薬!?」
緒方の声にビックリして、ヒカルは慌てて付け足した。
「ち…ちが…ホントの薬じゃなくて…」
「…持っていると安心するってゆうか、落ち着くってゆうか…」
 ヒカルはよろよろと立ち上がると、床に置いてある自分の鞄を開けた。中から、一冊の
ノートを取りだした。そのまま、そこにペタリと座り込んだ。
「それが?」
ヒカルはコクリと小さく頷いた。奇麗なリンドウの絵が表紙を飾っている。
「これねぇ、オレの日記帳…って、最近、書いてないんだけどさ…」
「ああ…前に言っていたな…書いてないのか?」
ヒカルは、表紙のリンドウをジッと見つめて、ぽつりと言った。
「…だって…泣き言ばっか書いちゃいそうだし…」
書けばいいじゃないか―――――と、今のヒカルに言うのは無神経だろうか?胸に溜めて
おくのはよくないとか、気持ちを吐き出せとか…人ごとならば何とでも言える。
 ヒカルが、パラパラとページを繰ると中から紙片が落ちた。床を滑って緒方の足下で、
止まった。
「しおりが落ちたぞ。」
拾って、ヒカルに手渡した。ヒカルは、口元に薄く微笑みを浮かべてそれを受け取る。
「それ…リンドウだな…?」
ヒカルの細い指先が、花の輪郭をそっと辿っていく。
「……塔矢がくれたんだ…」
囁くような小さな声だった。



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