天涯硝子 12 - 14
(12)
冴木から電話があったのは、その日の午後だった。
ヒカルが気を取り直し、部屋で棋譜を並べていると、階下で電話のベルが鳴った。
時計を見ると、三時を少しすぎていた。
この時間の電話なんてわけのわからないアンケートか、何かの勧誘だろう。
そう思いながらも母親が電話に出て対応するのを、耳を澄ませて聞いてしまう。
ヒカルはため息をついて首を横に振り、改めて碁石を持った。
夜になったら、また、冴木のところに電話してみよう。そう思っていると母親に呼ばれた。
「ヒカルーっ、冴木さんからよ」
冴木からだと言われたことが、何か不思議なことのようにヒカルは首をかしげたが、
次の瞬間には部屋を飛び出し、階段を駆け下りていた。
下りてきたヒカルの顔を見て、母親は何か言いたそうにしていたが、黙って受話器をヒカルに渡した。
「…冴木さん? オレ」
冴木の、相手を確かめるような一瞬の間が怖い。
『進藤か?何だおまえ、和谷んとこ来てないからあせったぞ』
「え? 冴木さん行ったんだ。和谷が冴木さん来てないって言うから、オレ、行く気なくしちゃってさぁ」
『まあ、俺も行ったの遅かったしな。ごめんな、連絡しなくて』
「ううん…。…冴木さん、今どこにいるの?」
『和谷んとこから帰って来た。部屋にいるよ。……進藤、今から俺のとこに来いよ』
嫌だったからではなくて、嬉しかったからなのだけれど、ヒカルは少し間をおいた。
「…うん。行く」
冴木の住む街の、駅で待ち合わせの約束をして、電話を切った。
受話器を置いて振り向くと、母親が心配そうな顔をして立っていた。
「ヒカル、あんたやっぱり具合が悪いんじゃないの? 顔が真っ赤よ?」
ヒカルはギョッとして後じさり、あわてて言った。
「何でもないよ!。平気。…オレ、冴木さんとこ行くからっ!」
まだ、何か言いたそうにしている母親を置いて、ヒカルは二階の部屋に駆け上った。
「いっぱい待った?」
電車の乗り継ぎのタイミングが合わず、ヒカルが待ち合わせの駅に着くまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
「いいや、そうでもないよ。店に寄ったりしてたし」
時刻は五時をずいぶん過ぎている。
二階の部屋に戻って、着替えの服をバックにつめ込んだり、持って行っても使わないだろうという物を手にして、考え迷ったりしていたために、家を出るまでにも時間がかかった。
「どこかでメシ食って行くか。何がいい?」
冴木の部屋に行く時には、いつもコンビニによって何かを買って行く。
この街で、何かを食べて行こうと言われても、和谷とふたりで冴木のところからの帰りに、ラーメン屋に入ったことがあるだけだ。
「ラーメンがいいなぁ。あの商店街を抜けたとこの、雑居ビルの二階の」
「ああ、白龍だな? …あそこまで行ったのか。駅と逆だな」
「うん? そんな名前だっけ?」
「他は? 何かない?」
「いい! いいよ。ラーメンがいい!」
ヒカルはあわてた。
小学生の時、両親がふたりだけで食事に出掛けると言うので、祖父の家に預けられる時に、
だだをこねて無理に着いて行ったことがある。
行った先の店はテーブルにキャンドルが灯り、大人ばかりが静かに過ごすような落ち着いた雰囲気の店で、ヒカルは急に恥ずかしくなり、もじもじと大人しくしていると、母親がヒカルの体調が悪いのではと、家に帰ろうと言い出したのだ。
「結婚記念日だったんだよ…。お母さん、本気で心配してさぁ。悪いことしちゃった」
「それは失敗したな」
「それでさぁ、大人の人が行くような店って、苦手だから」
「ははは。大丈夫だよ、俺だって苦手だ。そういうとこはプロになったお祝いに、白川さん達に連れて行ってもらったくらいだ」
「そう? 冴木さんも? オレ達って碁会所がどこにあるかとか位しか、知らないよねぇ」
ヒカルがそう言うのに、冴木は声を出して笑った。
(13)
夏の陽はこの時間でもまだ残っていて、風は暑いままだ。
ふたりは並んで歩き、たわいない会話をしながら商店街を抜けて、白龍のあるビルに入った。
一階の階段の脇にあるエレベーターの前に立ったヒカルの腕を、冴木は乱暴に掴んだ。
「二階じゃないか。こっち来いよ」
ヒカルは引っ張られるようにして階段を登り、踊り場でくるりと振り向いた冴木に力強く引き寄せられた。
「あっ…」
冴木の胸にぶつかったかと思うと、そのままきつく抱きしめられる。
その瞬間、冴木がここで何をしようとしているかわかった。そして、同時にこんなところで?と考え、
ヒカルは少し戸惑った。
冴木が一階から見えない場所の壁に寄りかかり、ヒカルの顎をとらえて上向かせる。
ヒカルは爪先立ちになり、胸を反らせ両腕を、少しかがみ込んだ冴木の首にからませて、目を閉じた。
冴木がヒカルの小さな口に、噛みつくように口付ける。
薄く開けた唇の隙間から、冴木の舌が暴れ込んで来る。その舌に自分の舌を絡めとられ、ヒカルは息を詰めた。
冴木がヒカルの背中にまわした腕に力を込め、すくい上げるようにヒカルを抱きしめる。
ヒカルの爪先が浮いた。
身体はしっかりと抱きこまれていたものの、浮いた両足は不安定に揺れていた。
その足の間に冴木が膝を割り入れて来る。
「…んっ、冴木さん…誰か来たら…」
やつと唇が離れたすきに、ヒカルは喘ぎながら言った。
冴木はストンとヒカルをおろし、床に立たせると少しおかしそうに笑い、ヒカルのこめかみと明るい前髪に軽くキスしながら言った。
「何を、言うのかと思ったら、…会いたかったって言えよ」
ヒカルもつられて笑顔になり、身体を冴木にもたれかけながら応えた。
「…会いたかった。…ずっとだよ」
鼻先をくすぐる冴木のかすかな匂いと、頬寄せた胸から伝わる熱い体温。
ヒカルはふと、佐為にも身体があったら、こんな風に匂いがして、身体の熱を感じる瞬間があったかもしれないと思った。
上の階から人が下りてくる足音がして来た。
一階からも数人の男性の声がし、階段を使いそうな話し声が聞こえる。
時刻はもう六時近い。勤め帰りの人もいれば、土曜の夜を楽しもうと繰り出してきた人たちで、街は賑わい始めている。
この階段の踊り場は、今、そんな人たちで溢れる街の、ほんの僅かの時間生まれた、ふたりだけの
空間なのだ。それも、もう、シャボンのように壊れようとしている。
冴木はもう一度ヒカルを抱きしめ、名残り惜しそうにヒカルを見つめながら腕をほどいた。
ふたりの間に流れ込む空気が冷たい。…こんなことが前にもあった。
「行こう」
冴木はヒカルの手をとって、階段を登った。
冴木の部屋に入り、ヒカルが靴を脱いでいると後ろから冴木に抱きつかれた。
「あっ、冴木さん、靴脱げないよ」
ヒカルは安定感をなくし、フラフラと床に崩れた。ゴトゴトと床に、途中で買って来たペットボトル等が散らばる。
「ああ、ごめん」
腕を引かれ、立ち上がったヒカルは上目使いに冴木を見て尋ねた。
「あのさ、今日泊まってってもいい?」
「…帰すつもりはないけどな」
「……電話した時さ、そのこと聞かなかったなと思って」
明日はふたりとも仕事はないのだと了解して、ほっとする。では、ふたりで過ごす時間はたっぷりあるのだ。焦ることはない。
「じゃあ、一局打とうよ。この前負けてから、誰かと打って勝ちたくてしょうがないんだ」
冴木は散らばったペットボトルを拾い上げ、笑いながら言った。
「何だ? 負けてなんか、やらないぞ」
ヒカルは部屋の隅に寄せてあった碁盤を引き出し、空のマグカップを用意してくる冴木を待った。
そんなヒカルの様子を見ていた冴木が言う。
「やっぱり違うな、碁を打つとなると」
「え?」
「今日、最初に俺に会った時からのおまえの顔は、どことなく緊張してたのに、今はイキイキしてるぞ。楽しそうだ」
(14)
冴木は続けて、
「だからって、俺といると緊張するんだろうか、なんて思わないよ。…実を言うと俺も今日は緊張してたんだ。おまえと一緒さ」
以前、母と出掛けた時に、 おまえはつまらなそうな顔をして張り合いがないと言われたことがある。
一瞬、そんな顔をしていたのかとヒヤリとしたが、冴木も自分と同じような緊張感を持っていたのだと気づいてホッとした。ふたりともこんな風に誰かと会うことに、慣れていないのだ。
「…おまえが黒だな」
碁盤の向こうに座る冴木の声が柔らかい。力の入っていた体がほぐれ、安心感に満たされた。
そしてすぐに盤へと気持ちを向ける。胸の中に冴え冴えとした空気が流れ込む。
碁盤の前では、ふたりともプロの棋士なのだ。
17の四、3の十七、16の十七と始まった碁は、中盤までヒカルの優勢で続いたが、終盤のヨセで勝ちを急いだヒカルの手順の間違いで、最後には逆転されてしまった。
「うわぁぁ。…半目負けかよ…」
ヒカルは後ろへひっくり返って、悔しがった。
「どうしたんだ。おまえらしくないな」
「…負けがこんでんなぁ、オレ。勝てると思ったのに」
「オレも勝った気がしないな、おまえの間違いに気づいたし」
「…ちぇっ。次こそ負けないぞ。絶対勝ってやる…」
手で顔を覆い、そうつぶやくヒカルに冴木の近づく気配がした。
ヒカルがハッとして見上げると、すぐ隣りに冴木が寝そべった。
するりと冴木の身体の下に抱きこまれ、両足を冴木の足に挟まれ体重を掛けられて、ヒカルは身動きが取れなくなった。
「…冴木さん、重いよ」
「んー? 進藤は華奢だなぁ。俺の言うこと聞くか? そしたら放してやる」
「…何?」
「俺にキスしてくれ」
そう言われてヒカルは笑い出した。
「何言ってんの! 人が来るかもしれないとこでオレにキスした人がさぁ!」
「笑ったな? おまえからキスして欲しいんだよ」
ヒカルは緩められた冴木の腕の中から手を伸ばし、冴木の首に絡ませ引き寄せた。
目を閉じるとすぐに冴木の唇が触れた。ヒカルの唇がジンと痺れる。
冴木の舌がヒカルの唇を割り、深く入り込むとヒカルの方から舌を絡ませ、強く吸った。
ヒカルの身体の下に腕を差し入れ、冴木は強く抱きしめる。少し浮いたヒカルの頭がずれ、唇が離れた。冴木はヒカルの唇を追い、ヒカルは冴木の首にしがみついた。
お互いの唇の間に隙間を作るまいとするように、その口付けは長く続いた。
「…オレからキスして貰いたかったんじゃないの?」
ようやく唇が離れ、呼吸を整えながらヒカルは囁いた。
冴木は目を閉じたまま、名残り惜しそうにヒカルの唇を舌先で舐めている。
「ねえってば!」
答えない冴木にヒカルも少し舌先を出し、冴木の舌を舐めた。
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