平安幻想秘聞録・第三章 12 - 15
(12)
「幸い、意識がなく流れに逆らわなかったことが良かったのでしょう。
致命傷は受けずに済みましたが、しばらくは自分の脚で立って歩くこと
もできず、体力が戻り、都に帰れるようになるまで、二年の年月がかか
ってしまいました。その間(かん)、帝にも要らぬ心配をおかけして、
まことに申し訳ございません」
朗々としたヒカルの声に、佐為は驚きが隠せなかった。確かに明も交
えて帝への対応を協議はしたが、答える役は佐為のもので、当のヒカル
はそんな長い台詞、オレには絶対無理だな。舌を噛みそうだと顔を顰め
ていたのだ。
「うむ。そうであったか」
「はい」
「とりあえずはそなたが無事で何よりじゃ」
「はい、ありがとうございます」
低い頭を更に低くしたヒカルに、帝がついと近づく。そして、おもむ
ろに手にした扇子をヒカルの顎の下に当てると、そのまま掬い上げる。
つられてヒカルの顔も肩の高さまで上がり、覗き込むようにしている帝
とばっちりと目が合ってしまった。
し、白川先生〜!?
どこかで聞いた声だと思ってはいたが、まさか帝がヒカルの囲碁初心
者時代の恩師とも言える白川道夫だったとは。声も出ず、唖然と見返す
ヒカルに、帝は珍しく柔らかい笑みを向けた。
「なるほど、これは雛に稀なるほど美々な面じゃ。東宮が想いを寄せる
のも分かる気がするな」
そう言われても、何と答えていいのか分からない。気温も高くない季
節だというのに、だらだらと嫌な汗がヒカルの背中を滑り落ちた。
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「大君、お戯れはそれくらいに。その者も困っておりますぞ」
そう口添えをしてくれたのは、名前も知らないが帝の側近らしかった。
「はは、すまぬ。あまりに反応が可愛かったのでな」
「い、いえ、オレ、いえ、私にはもったいないくらいの、お言葉で」
さっきの口上はまぐれだったとばかりに、ヒカルの返答は歯切れが悪
くなっていた。だが、そんなところも若者らしいと帝は受け取ったのか、
気分を害することもなく、お付きの者たちに目で合図を送り、そのまま
ヒカルの横を通り過ぎて行った。
その姿が完全に見えなくなるのを待って、やっとヒカルが身を起こす。
「はぁ、疲れた〜」
「一時はどうなることかと思いましたが、無事、大君との対面も済みま
したね」
「本当だよー。もう心臓に悪いったら」
「私も一瞬、肝を冷やしました」
行洋からの文では、帝が直接ヒカルに言葉をかける手筈にはなってい
なかったのだが。
「それにしても、光があんなにすらすらと口上を述べるとは思いもしま
せんでしたよ」
「佐為と塔矢、じゃなくて賀茂が打ち合わせをしてたのを横で聞いてた
からかな。自分でも信じられないや」
オレって本番に強いのかもな。緊張が解れた反動か、満面の笑みを浮
かべたヒカルに、佐為も静かに頷いてみせる。
「それに、心配してた東宮の姿もなかったしさ」
「そうですね。酷く光に執着のご様子でしたから、春の君も帝と一緒に
お出でになると思っていたのですが・・・」
(14)
「飽きたのかな?じゃなけりゃ、他に好きな奴ができたとか?」
「それはありえそうな話ですね」
平安の貴族、特に公達の間では、恋多きことは声高々に誇ってもいい
ことだ。もちろん、量だけではなくその質も問われるのだが。
「そうだといいんだけどなぁ」
上目遣いに見上げるヒカルの表情はどこか幼くて、可愛い。思わず労
を労う意味も込めて、小さな身体を腕に抱き締めてやろうとした佐為は、
ヒカルの背後から近づいて来る人影にハッと身構えた。
「何?どうしたんだ?」
「光。もう用も済んだことですし、退出しましょう」
「う、うん」
が、なぜか佐為は承香殿ではなく、後宮の弘徽殿の方へとヒカルの背
を押して歩き出した。
「えっ、佐為、こっちじゃないのか?」
寝殿造りに疎いヒカルでも、どちらから来たかくらいは覚えている。
そちらへ向かうと内裏の奥へと戻ってしまうはずだ。
「こちらでいいのですよ。さぁ、早く」
理由は知れないが、いつも花のようにおっとりとしている佐為が珍し
く気を焦らせている。分かったと頷いて歩き始めたとき、後ろから衣擦
れの音が近づいて来た。
「待たれよ、佐為殿」
引き止めたのは、堂々とした体格をした公達だった。
「何でしょうか?」
振り返りながらさり気なくヒカルを自分の陰に隠し、佐為は公達と正
面から向かい合う。
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佐為の衣の隙間からそっと相手を見たヒカルはまたもや驚いた。そこ
に立っていたのは、佐為を探しに因島まで訪ねたとき出逢った、アマの
No.1だという男。確か周平という名だっただろうか。
これじゃ、オレの知り合いで出て来ないヤツはいないかもな。ヒカル
はまだ事態が悪い方へと転がりかけていることに気がつかない。その間
に男は一間くらいの距離まで近づいていた。
「弘徽殿の女御さまへの御用は終わられたとお見受けするが」
「はい」
「それはいいところに参った。東宮さまがぜひ大君の囲碁指南役である
佐為殿に一手打っていただきたいと。こうおっしゃられておる」
東宮の名前に、ヒカルはびくりと身を竦ませた。うまく会わずに済ん
だと思い気が緩んでいたのだ。
「それは、身に余る光栄です。ですが、本日は所用により退出しなくて
はなりませんので」
「火急の御用か?」
「いえ、そういうわけではないのですが。約束がございます」
「ほう、東宮さま直々のお誘いを辞してまで、向かわれる先がおありか?
余程、名のある方でいらっしゃるのだろうな」
「・・・」
あからさまに東宮を蔑ろにするのかと詰め寄られ、言葉が返せない。
下手に誰かの名を口にすれば、その相手が東宮に睨まれるのだ。うかつ
に方便を使うこともできない。
「分かりました。相手には後程お詫びの文を送ることに致します。光、
あなたは先程の部屋で待っていてくれますか?」
「オレは、いいけど、でも、佐為は・・・」
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