クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 12 - 22
(12)
あれから数日経った。
未明、明は自邸の暗い室内でおぞましい責め苦と闘っていた。
「くっ!ハァッ、ハァッ・・・!ぐぅぅ・・・っ!」
一晩中の攻防に身悶える明の体からは装束が自然と乱れ解け、
今や半裸に近い状態となっていた。
身体の節々が痛む。
堅い床の上で長時間転げ回ったため、痣になっているのだろう。
だがそんな痛みは問題ではない。
いま明を悩ませているのは、苦痛をも凌駕して身体の芯から己を蕩かすような、
遣る瀬無い快楽だった。
――強情なひとだ。痩せ我慢はおよしなさい。疾うの昔に限界は超えているはず・・・
「ぐっ、黙れ・・・!」
幾度となく噛み締めた唇は既に破れて血の味がする。
男は、人語を語れども既に人の形を成していなかった。
黒っぽく長くうねる巨大な影となって明の全身に絡みつき、
堅い床と白い膚の上をズルズルと移動していた。
その形状は、例えるなら蛇――クチナハの如きものだ。
それは影のように実体無きものと目には見えながら触れれば確かな質感があり、
頭部と思しき部分には酸漿の如き二つの赤い目と先の割れた長い舌がある。
その点も蛇に似ている。
普通の蛇と異なるのは、その尾部がどうやら己の意志によって
自在に膨張硬化させうるらしいという点である。
膨張時のそれは人間の男の巨大な陽物に似ている。
クチナハはそれで明の後門を犯す。
クチナハの体表から絶えず分泌される粘液に触れた箇所から、
明の全身がジクジクと狂いそうに疼く。
堪え切れず明が精を放つと、先の割れた頭部が待ちかねたように絡みついて
美味だ、美味だと残らず舐め取る。
それをずっと繰り返していた。
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確かに己は、この相手には勝てないのだろう。
この数日間、明が今までに得た陰陽師としての知識と経験を総動員して
あらゆる手段を講じたが、クチナハを撃退することは叶わなかった。
しかし、だからと云って導かれるままこの快楽に身を委ねてしまったら
己はどうなってしまうのか。
水を例えに用いるなら、今までに明が光との交合によって得てきた快楽とは、
互いに山の清水を手に掬い取って飲ませあい、喉を潤すようなものだった。
微笑みあい、労わりあい、水の旨さと共に相手の優しさを確かめられる。
翻って、いま己の肉体に与えられる快楽はまるで滝だ。
人のわざを超えて流れ落つる瀑布だ。
絶え間なく、容赦なく、抵抗の意思すら押し流す勢いで己の魂を穿ってゆく。
いっときでも理性を手放したら忽ちに精神がばらばらに壊れてしまいそうで、
身も心もこのおぞましい存在が与える快楽に支配されてしまいそうで、
怖ろしかった。
――じきに、夜が明ける。
――私が再び貴方の中に籠もらねばならなくなる前に、
――今一度この喉を潤したいものだ。貴方の精で・・・
「ほざけっ・・・!」
日中は力が弱るのか、クチナハは明の後門から中に入り込んで大人しくしている。
どういう仕組みであんな長く巨きなモノが己の体内に収まるのか
明には分からなかったが、
もとより人間界の常識の範疇では測り切れない存在が妖しというものだろう。
クチナハが活動を休んでいる日中に、明は辛うじて食事を摂り、身を清め、
内部の汚れを押し出すように排泄し、疲れ切って眠る。
ただし日中だからと云って完全に活動を休止するというわけでもないらしく、
明が他の陰陽師のもとへ救援を求めようとしたり一歩でも外へ出ようとしたりすると、
忽ち内部で暴れ出すので対処のしようがない。
(14)
こんな時、一緒に暮らしている相手がいたら。
そうしたら、こんな己の姿を見て心配してくれるのだろうか。
用もない時はうるさいくらい訪ねて来るくせに、この数日間に限って光が来ない。
この前光が待っているのを知りながら先に一人で帰ってしまったことで、
機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
己の膚から出た汗と、クチナハの体表から分泌される淫液とが交じり合う。
その上をクチナハの長い身が這い回る感触に、膚の表面から蕩けていきそうだった。
後門の内部では、巨大に膨れ上がったモノが
身を捩らせながら文字通り生き物の如く動いている。
濡れそぼった己のモノの脇を時折クチナハの身がズルリとかすめる。
先の割れた舌で胸の突起をチロチロと刺激される。
朦朧とした意識の中、かつて己のために利用し、
己の勝手で手放してしまった物言わぬ家族を明は思い出した。
あいつが今ここにいてくれたなら、会話も出来ない存在だったとしても
きっとこんなに心細い気持ちにはならない――
後悔とも愛惜ともつかぬ気持ちが込み上げてとめどなく涙を流しながら、
一際強く奥を突かれ、明は失神した。
その陰茎から放たれたものをクチナハの影は首を擡げてチロチロと旨そうに舐め、
やがてズルリズルリと白い膚の上を這いながら明の後門の中へと隠れていった。
失神したはずの明の身体が無意識のうちにその刺激にピクンッと跳ね上がり、
再びがっくりと力を失った。
その様子を蔀戸の隙間からそっと窺う一つの影があった。
緑がかった体色を持つ丸っこい一羽の小鳥である。
小鳥は心配そうにその場で二、三度くるくると円を描いて飛ぶと、
高く翔けあがり、秋の明け方の涼やかな大気の中を内裏の方角目指して飛んでいった。
(15)
「あっ佐為様!おはようございます。ついでに光も」
「ついでかよ」
幼馴染みのあかりがえへへと舌を出した。
「おはようございます、あかりの君。今日も眩しいくらい元気ですね」
佐為が微笑みかけると、あかりは照れ臭そうに居住まいを正した。
お転婆を抑えてちゃんとしていれば、これでなかなか愛くるしい美少女なのだ。
「あの、佐為様。今日は中宮様のもとで指導碁をなさると窺いました。
もしお時間があったら、その後で私たちにもご指導いただけないでしょうか?」
「私たち・・・?」
光と佐為が同時に顔を上げると、あかりの背後の御簾の内に
何やら大勢の人の気配がする。
華やかな薫物の香りに、色鮮やかな装束の影――
どうやら女房たちが息を詰めてこちらを窺っているらしい。
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――こっ、こえー。
思わず一歩退いてしまった光の横で、佐為はにっこりと微笑み頷いた。
「いいですとも!皆さん勉強熱心ですね。午後からは時間が空いていますから、
こちらに窺って指導致しましょう」
御簾の内からキャーッと黄色い歓声が上がった。
あかりが嬉しそうに顔を輝かせる。
「ありがとうございます!よかったぁ、佐為様最近あちこちからお召しがあって
お忙しそうだから、お願いしていいのかなぁってみんなで悩んでたんです!
それじゃ、中宮様の御座所まで私がご案内しますね」
弾むように先に立って歩き出したあかりの後について、
佐為が御簾の内に向かいもう一度にっこりと花のように微笑みかけると、
今度はほうっ・・・と感嘆の溜め息が洩れた。
バタバタと幾人かが失神して倒れた気配すらする。
――こ、コイツって・・・
多少引いた笑みを浮かべながらついて歩く光をよそに、佐為はうきうきした声で
「最近碁に興味を持ってくださる人が増えて嬉しい限りです。私ももっともっと
精進して、皆さんに追い越されないようにしないといけませんね!」
と呟いていた。
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「さてと、佐為様は夕方まで指導碁だと思うけど・・・光はこれからどうするの?」
中宮の座す弘徽殿まで恙無く佐為を送り届けてから、あかりが振り向いた。
「オレ?もう帰るよ。検非違使庁のほうは今日非番だし、
帝や中宮様の御用で佐為が呼ばれる時は帰りに随身をつけてもらえるから、
今日は先に帰っていいって言われたんだ」
本当は、他に随身がいても己を頼ってついていて欲しいと言ってもらえるなら、
そのほうが嬉しい。
だが、佐為が先に帰ってよいと云うのも己に気を遣ってのことだと光には解っていた。
もっと云えば、己と明に気を遣ってのことである。
こちらからは特に話してはいないけれども、佐為は薄々光たちの関係に
気づいているようだった。
数日前の一件以来光は仕事が忙しくて明に会っていないし、
折角の休日を利用して仲直りなさい――という心遣いなのだろう。
――佐為、ありがとな。
心の中で手を合わせつつ、今日は久しぶりに明に会いに行けるという嬉しさで
胸が高鳴ってくる。
この間明は先に帰ってしまったが、もしかしたら本当に具合が悪かったり
用事が出来たりしたのかもしれない。
一目会えば、この間はすまなかったねと笑いかけてくれるかもしれない。
もし己が何か明を怒らせてしまっているなら、ちゃんと訳を聞いて仲直りすればいい。
・・・今ぐらいの時間なら、明はいつも陰陽寮で仕事に精を出している頃だ。
一言挨拶を交わすだけでもいい。早く明の顔が見たい。
気が急いて、光はずんずん早足になった。
(18)
「あん、待ってよ。光に聞きたいことがあるんだから」
「聞きたいこと?何だよ」
あからさまに面倒臭そうな顔をした光に、あかりがぷうっと頬を膨らませた。
「明様のことよ。最近宮中に出ていらっしゃらないみたいだけど、どうしたの?
なせの君や他の女房たちも心配しているよ」
「・・・賀茂が?えっ、アイツ・・・仕事に来てないのか?」
「知らないの?光。ずっと欠勤なんだって。迎えの牛車が明様のお邸に行っても、
本日は障りがあって出られませぬ、って」
「そんな・・・」
光は目の前が真っ暗になった。
数日前、明はやはり調子が悪かったのだ。それに気づかず一人で帰して、
しかもずっと放ったらかしにしてしまった。
一人ではろくに食事すら作れない明を――
「ご病気でもして臥せってらっしゃるんじゃないの?ねえ光、お見舞いに行って
差し上げたほうが――」
あかりが言いかけた時、パタパタッと何かが羽ばたく音がして、
小さな影が光の周りを滅茶苦茶に飛び回った。
(19)
「うわッ!何だコイツ」
「と、鳥!?ただの鳥だよ、光」
見ると丸っこい体つきの緑色がかった鳥がパタパタと忙しなく羽ばたき、
何かを懸命に訴えるように光の衣の端を嘴で引っ張っている。
「オマエ――何処かで見たことがあるぞ」
それは明の式神だった。
物言わぬしもべ、たった一人の家族として明と共に暮らしてきた存在。
あの晴れた日に、光と佐為に付き添われて明は彼に別れを告げ、
彼は少し寂しそうに鳥と化して自由な大空へと羽ばたいていった。
「賀茂の、式神か。オレを呼びに来たのか?・・・アイツに、何かあったんだな」
鳥は人間がするように何度も小さく頷いて、先導するように空へと翔けあがった。
「光、どういうこと?あれ、明様の鳥なの?」
「うん、まぁそんなもんだ。
オレ、アイツについてこれから賀茂んとこに行ってくる!」
「あ、ちょっと待って!だったらこれを持って行って、明様に差し上げて」
あかりが差し出したのは、読めない異国の文字と――
蛇が渦を巻いているような奇妙な図柄とが描かれた、正方形の紙片だった。
(20)
「あぁ?何だこれ」
「魔除けの護符よ。何日か前に宮中に訪ねて見えたみこ様からいただいたの」
「みこさまぁ!?・・・って親王様かよ?オマエいつの間に、そんな高貴な方を
通わせてたんだ」
確かにこの幼馴染みは黙っていればなかなかの美少女だ。
この年になれば、そろそろ通う男が居てもおかしくはあるまい。
だが親王などという非現実的に高貴な男が相手となれば話は別だ。
はねっ返りの幼馴染みがやんごとなき相手と雅な恋をする図が
どうしても想像出来なくて、光は素っ頓狂な声を上げた。
だがあかりは顔を赤くして光をどついた。
「いでっ」
「もうっ、違うわよ!一の宮様って云ってね、帝の腹違いのお兄様に当たる方。
ずうっと都を離れてらしたんだけど、何日か前に急に帝のもとを訪ねてらしたの。
えーとあれは、そうそう、この前佐為様が帝に指導碁をされた日よ」
数日前、明を待ちながら佐為に会った時。
もう指導碁は終わったのかと聞く己に佐為は何と云っていたか。
――帝のもとに、訪ねて参られた御方がありまして。
(21)
「あぁ、あの方か」
「光も知ってる?最近評判だもんね!その一の宮様がね、帰りがけに女房の局にも
訪ねて見えて、指導碁をしたり護符を分けて下さったりしたんだよ」
「その一の宮様ってのも碁を打つのか?ってか、何で宮様が護符なんてくれるんだよ。
陰陽師や法師でもねェのに」
「もうっ光、本当に一の宮様のこと知ってるの?あの方はね――」
あかりが説明を始めようとした時、空からあの小鳥が急かすように高く鳴いた。
――そうだった、こうしちゃいられねェ。
「あかり、ごめんな。その話は今度聞くよ。オレ、賀茂のとこに行かなきゃ」
「う、うん、そうだったね。とにかくこの護符は持って行ってよ。
冷え性が治ったとか恋人が出来たとか、今女房たちの間ですっごく評判なんだから」
「ありがとな、ちゃんと賀茂に渡すよ。じゃ、なせの君や佐為にもよろしく!」
「気をつけてね。明様にもよろしくねーっ」
小鳥の後を追って駆け出した光に、あかりが後ろから声を掛け手を振った。
(22)
もう、どれくらいこうしているのだろう。
意識を回復しても起き上がる気になれなくて、明はただ死んだようにじっと横たわり
身体を休めていた。
今のうちに少しでも食事を摂っておかなければ――
近衛にも云われたし、と考えてから、だがその近衛はもう自分に会いに来てくれるか
わからないのだ、と思い至る。
ならばいっそこのまま死んでしまってもよいのかもしれない。
食べて命を保っても、このままおぞましい妖しに精を与えて養ってやるだけの
生ならば、乳を搾られる牛と変わりがないではないか。
牛はいい、牛は牛として生まれた務めを果たしているだけだ。
己は牛ではない。陰陽の術で都を護る務めの賀茂家に生まれた身であるのに――
そう考えると妖しに敵わない己がふがいなくて悔しくて、涙が込み上げてくる。
――今頃、近衛はどうしているのだろう。
彼に一目会って、あの明るい声で「きっと何とかなるさ!大丈夫!」とでも云って
もらえたなら、暗く濁ったこの魂にも新しい光が灯りそうな気がするのに。
涙が頬を伝って床を濡らしていくのを感じながら、疲れ切った明は一時の眠りに落ちた。
眠りの中の――これは夢だろうか。
いつものように光がうるさいくらいに門を叩く音が聞こえる。
門には中から錠がかかっているはずなのに、それが外れた音がする。
鳥が高く鳴いて騒ぐ声が聞こえる。
聞き慣れた足音が庭をずんずん進んできて、床を踏み鳴らす音が聞こえて、
そして――
「賀茂!」
薄目を開いて見たそこに、朝方の眩しい青空をしょって、
懐かしい光が立っていた。
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