クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 12 - 33
(12)
あれから数日経った。
未明、明は自邸の暗い室内でおぞましい責め苦と闘っていた。
「くっ!ハァッ、ハァッ・・・!ぐぅぅ・・・っ!」
一晩中の攻防に身悶える明の体からは装束が自然と乱れ解け、
今や半裸に近い状態となっていた。
身体の節々が痛む。
堅い床の上で長時間転げ回ったため、痣になっているのだろう。
だがそんな痛みは問題ではない。
いま明を悩ませているのは、苦痛をも凌駕して身体の芯から己を蕩かすような、
遣る瀬無い快楽だった。
――強情なひとだ。痩せ我慢はおよしなさい。疾うの昔に限界は超えているはず・・・
「ぐっ、黙れ・・・!」
幾度となく噛み締めた唇は既に破れて血の味がする。
男は、人語を語れども既に人の形を成していなかった。
黒っぽく長くうねる巨大な影となって明の全身に絡みつき、
堅い床と白い膚の上をズルズルと移動していた。
その形状は、例えるなら蛇――クチナハの如きものだ。
それは影のように実体無きものと目には見えながら触れれば確かな質感があり、
頭部と思しき部分には酸漿の如き二つの赤い目と先の割れた長い舌がある。
その点も蛇に似ている。
普通の蛇と異なるのは、その尾部がどうやら己の意志によって
自在に膨張硬化させうるらしいという点である。
膨張時のそれは人間の男の巨大な陽物に似ている。
クチナハはそれで明の後門を犯す。
クチナハの体表から絶えず分泌される粘液に触れた箇所から、
明の全身がジクジクと狂いそうに疼く。
堪え切れず明が精を放つと、先の割れた頭部が待ちかねたように絡みついて
美味だ、美味だと残らず舐め取る。
それをずっと繰り返していた。
(13)
確かに己は、この相手には勝てないのだろう。
この数日間、明が今までに得た陰陽師としての知識と経験を総動員して
あらゆる手段を講じたが、クチナハを撃退することは叶わなかった。
しかし、だからと云って導かれるままこの快楽に身を委ねてしまったら
己はどうなってしまうのか。
水を例えに用いるなら、今までに明が光との交合によって得てきた快楽とは、
互いに山の清水を手に掬い取って飲ませあい、喉を潤すようなものだった。
微笑みあい、労わりあい、水の旨さと共に相手の優しさを確かめられる。
翻って、いま己の肉体に与えられる快楽はまるで滝だ。
人のわざを超えて流れ落つる瀑布だ。
絶え間なく、容赦なく、抵抗の意思すら押し流す勢いで己の魂を穿ってゆく。
いっときでも理性を手放したら忽ちに精神がばらばらに壊れてしまいそうで、
身も心もこのおぞましい存在が与える快楽に支配されてしまいそうで、
怖ろしかった。
――じきに、夜が明ける。
――私が再び貴方の中に籠もらねばならなくなる前に、
――今一度この喉を潤したいものだ。貴方の精で・・・
「ほざけっ・・・!」
日中は力が弱るのか、クチナハは明の後門から中に入り込んで大人しくしている。
どういう仕組みであんな長く巨きなモノが己の体内に収まるのか
明には分からなかったが、
もとより人間界の常識の範疇では測り切れない存在が妖しというものだろう。
クチナハが活動を休んでいる日中に、明は辛うじて食事を摂り、身を清め、
内部の汚れを押し出すように排泄し、疲れ切って眠る。
ただし日中だからと云って完全に活動を休止するというわけでもないらしく、
明が他の陰陽師のもとへ救援を求めようとしたり一歩でも外へ出ようとしたりすると、
忽ち内部で暴れ出すので対処のしようがない。
(14)
こんな時、一緒に暮らしている相手がいたら。
そうしたら、こんな己の姿を見て心配してくれるのだろうか。
用もない時はうるさいくらい訪ねて来るくせに、この数日間に限って光が来ない。
この前光が待っているのを知りながら先に一人で帰ってしまったことで、
機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
己の膚から出た汗と、クチナハの体表から分泌される淫液とが交じり合う。
その上をクチナハの長い身が這い回る感触に、膚の表面から蕩けていきそうだった。
後門の内部では、巨大に膨れ上がったモノが
身を捩らせながら文字通り生き物の如く動いている。
濡れそぼった己のモノの脇を時折クチナハの身がズルリとかすめる。
先の割れた舌で胸の突起をチロチロと刺激される。
朦朧とした意識の中、かつて己のために利用し、
己の勝手で手放してしまった物言わぬ家族を明は思い出した。
あいつが今ここにいてくれたなら、会話も出来ない存在だったとしても
きっとこんなに心細い気持ちにはならない――
後悔とも愛惜ともつかぬ気持ちが込み上げてとめどなく涙を流しながら、
一際強く奥を突かれ、明は失神した。
その陰茎から放たれたものをクチナハの影は首を擡げてチロチロと旨そうに舐め、
やがてズルリズルリと白い膚の上を這いながら明の後門の中へと隠れていった。
失神したはずの明の身体が無意識のうちにその刺激にピクンッと跳ね上がり、
再びがっくりと力を失った。
その様子を蔀戸の隙間からそっと窺う一つの影があった。
緑がかった体色を持つ丸っこい一羽の小鳥である。
小鳥は心配そうにその場で二、三度くるくると円を描いて飛ぶと、
高く翔けあがり、秋の明け方の涼やかな大気の中を内裏の方角目指して飛んでいった。
(15)
「あっ佐為様!おはようございます。ついでに光も」
「ついでかよ」
幼馴染みのあかりがえへへと舌を出した。
「おはようございます、あかりの君。今日も眩しいくらい元気ですね」
佐為が微笑みかけると、あかりは照れ臭そうに居住まいを正した。
お転婆を抑えてちゃんとしていれば、これでなかなか愛くるしい美少女なのだ。
「あの、佐為様。今日は中宮様のもとで指導碁をなさると窺いました。
もしお時間があったら、その後で私たちにもご指導いただけないでしょうか?」
「私たち・・・?」
光と佐為が同時に顔を上げると、あかりの背後の御簾の内に
何やら大勢の人の気配がする。
華やかな薫物の香りに、色鮮やかな装束の影――
どうやら女房たちが息を詰めてこちらを窺っているらしい。
(16)
――こっ、こえー。
思わず一歩退いてしまった光の横で、佐為はにっこりと微笑み頷いた。
「いいですとも!皆さん勉強熱心ですね。午後からは時間が空いていますから、
こちらに窺って指導致しましょう」
御簾の内からキャーッと黄色い歓声が上がった。
あかりが嬉しそうに顔を輝かせる。
「ありがとうございます!よかったぁ、佐為様最近あちこちからお召しがあって
お忙しそうだから、お願いしていいのかなぁってみんなで悩んでたんです!
それじゃ、中宮様の御座所まで私がご案内しますね」
弾むように先に立って歩き出したあかりの後について、
佐為が御簾の内に向かいもう一度にっこりと花のように微笑みかけると、
今度はほうっ・・・と感嘆の溜め息が洩れた。
バタバタと幾人かが失神して倒れた気配すらする。
――こ、コイツって・・・
多少引いた笑みを浮かべながらついて歩く光をよそに、佐為はうきうきした声で
「最近碁に興味を持ってくださる人が増えて嬉しい限りです。私ももっともっと
精進して、皆さんに追い越されないようにしないといけませんね!」
と呟いていた。
(17)
「さてと、佐為様は夕方まで指導碁だと思うけど・・・光はこれからどうするの?」
中宮の座す弘徽殿まで恙無く佐為を送り届けてから、あかりが振り向いた。
「オレ?もう帰るよ。検非違使庁のほうは今日非番だし、
帝や中宮様の御用で佐為が呼ばれる時は帰りに随身をつけてもらえるから、
今日は先に帰っていいって言われたんだ」
本当は、他に随身がいても己を頼ってついていて欲しいと言ってもらえるなら、
そのほうが嬉しい。
だが、佐為が先に帰ってよいと云うのも己に気を遣ってのことだと光には解っていた。
もっと云えば、己と明に気を遣ってのことである。
こちらからは特に話してはいないけれども、佐為は薄々光たちの関係に
気づいているようだった。
数日前の一件以来光は仕事が忙しくて明に会っていないし、
折角の休日を利用して仲直りなさい――という心遣いなのだろう。
――佐為、ありがとな。
心の中で手を合わせつつ、今日は久しぶりに明に会いに行けるという嬉しさで
胸が高鳴ってくる。
この間明は先に帰ってしまったが、もしかしたら本当に具合が悪かったり
用事が出来たりしたのかもしれない。
一目会えば、この間はすまなかったねと笑いかけてくれるかもしれない。
もし己が何か明を怒らせてしまっているなら、ちゃんと訳を聞いて仲直りすればいい。
・・・今ぐらいの時間なら、明はいつも陰陽寮で仕事に精を出している頃だ。
一言挨拶を交わすだけでもいい。早く明の顔が見たい。
気が急いて、光はずんずん早足になった。
(18)
「あん、待ってよ。光に聞きたいことがあるんだから」
「聞きたいこと?何だよ」
あからさまに面倒臭そうな顔をした光に、あかりがぷうっと頬を膨らませた。
「明様のことよ。最近宮中に出ていらっしゃらないみたいだけど、どうしたの?
なせの君や他の女房たちも心配しているよ」
「・・・賀茂が?えっ、アイツ・・・仕事に来てないのか?」
「知らないの?光。ずっと欠勤なんだって。迎えの牛車が明様のお邸に行っても、
本日は障りがあって出られませぬ、って」
「そんな・・・」
光は目の前が真っ暗になった。
数日前、明はやはり調子が悪かったのだ。それに気づかず一人で帰して、
しかもずっと放ったらかしにしてしまった。
一人ではろくに食事すら作れない明を――
「ご病気でもして臥せってらっしゃるんじゃないの?ねえ光、お見舞いに行って
差し上げたほうが――」
あかりが言いかけた時、パタパタッと何かが羽ばたく音がして、
小さな影が光の周りを滅茶苦茶に飛び回った。
(19)
「うわッ!何だコイツ」
「と、鳥!?ただの鳥だよ、光」
見ると丸っこい体つきの緑色がかった鳥がパタパタと忙しなく羽ばたき、
何かを懸命に訴えるように光の衣の端を嘴で引っ張っている。
「オマエ――何処かで見たことがあるぞ」
それは明の式神だった。
物言わぬしもべ、たった一人の家族として明と共に暮らしてきた存在。
あの晴れた日に、光と佐為に付き添われて明は彼に別れを告げ、
彼は少し寂しそうに鳥と化して自由な大空へと羽ばたいていった。
「賀茂の、式神か。オレを呼びに来たのか?・・・アイツに、何かあったんだな」
鳥は人間がするように何度も小さく頷いて、先導するように空へと翔けあがった。
「光、どういうこと?あれ、明様の鳥なの?」
「うん、まぁそんなもんだ。
オレ、アイツについてこれから賀茂んとこに行ってくる!」
「あ、ちょっと待って!だったらこれを持って行って、明様に差し上げて」
あかりが差し出したのは、読めない異国の文字と――
蛇が渦を巻いているような奇妙な図柄とが描かれた、正方形の紙片だった。
(20)
「あぁ?何だこれ」
「魔除けの護符よ。何日か前に宮中に訪ねて見えたみこ様からいただいたの」
「みこさまぁ!?・・・って親王様かよ?オマエいつの間に、そんな高貴な方を
通わせてたんだ」
確かにこの幼馴染みは黙っていればなかなかの美少女だ。
この年になれば、そろそろ通う男が居てもおかしくはあるまい。
だが親王などという非現実的に高貴な男が相手となれば話は別だ。
はねっ返りの幼馴染みがやんごとなき相手と雅な恋をする図が
どうしても想像出来なくて、光は素っ頓狂な声を上げた。
だがあかりは顔を赤くして光をどついた。
「いでっ」
「もうっ、違うわよ!一の宮様って云ってね、帝の腹違いのお兄様に当たる方。
ずうっと都を離れてらしたんだけど、何日か前に急に帝のもとを訪ねてらしたの。
えーとあれは、そうそう、この前佐為様が帝に指導碁をされた日よ」
数日前、明を待ちながら佐為に会った時。
もう指導碁は終わったのかと聞く己に佐為は何と云っていたか。
――帝のもとに、訪ねて参られた御方がありまして。
(21)
「あぁ、あの方か」
「光も知ってる?最近評判だもんね!その一の宮様がね、帰りがけに女房の局にも
訪ねて見えて、指導碁をしたり護符を分けて下さったりしたんだよ」
「その一の宮様ってのも碁を打つのか?ってか、何で宮様が護符なんてくれるんだよ。
陰陽師や法師でもねェのに」
「もうっ光、本当に一の宮様のこと知ってるの?あの方はね――」
あかりが説明を始めようとした時、空からあの小鳥が急かすように高く鳴いた。
――そうだった、こうしちゃいられねェ。
「あかり、ごめんな。その話は今度聞くよ。オレ、賀茂のとこに行かなきゃ」
「う、うん、そうだったね。とにかくこの護符は持って行ってよ。
冷え性が治ったとか恋人が出来たとか、今女房たちの間ですっごく評判なんだから」
「ありがとな、ちゃんと賀茂に渡すよ。じゃ、なせの君や佐為にもよろしく!」
「気をつけてね。明様にもよろしくねーっ」
小鳥の後を追って駆け出した光に、あかりが後ろから声を掛け手を振った。
(22)
もう、どれくらいこうしているのだろう。
意識を回復しても起き上がる気になれなくて、明はただ死んだようにじっと横たわり
身体を休めていた。
今のうちに少しでも食事を摂っておかなければ――
近衛にも云われたし、と考えてから、だがその近衛はもう自分に会いに来てくれるか
わからないのだ、と思い至る。
ならばいっそこのまま死んでしまってもよいのかもしれない。
食べて命を保っても、このままおぞましい妖しに精を与えて養ってやるだけの
生ならば、乳を搾られる牛と変わりがないではないか。
牛はいい、牛は牛として生まれた務めを果たしているだけだ。
己は牛ではない。陰陽の術で都を護る務めの賀茂家に生まれた身であるのに――
そう考えると妖しに敵わない己がふがいなくて悔しくて、涙が込み上げてくる。
――今頃、近衛はどうしているのだろう。
彼に一目会って、あの明るい声で「きっと何とかなるさ!大丈夫!」とでも云って
もらえたなら、暗く濁ったこの魂にも新しい光が灯りそうな気がするのに。
涙が頬を伝って床を濡らしていくのを感じながら、疲れ切った明は一時の眠りに落ちた。
眠りの中の――これは夢だろうか。
いつものように光がうるさいくらいに門を叩く音が聞こえる。
門には中から錠がかかっているはずなのに、それが外れた音がする。
鳥が高く鳴いて騒ぐ声が聞こえる。
聞き慣れた足音が庭をずんずん進んできて、床を踏み鳴らす音が聞こえて、
そして――
「賀茂!」
薄目を開いて見たそこに、朝方の眩しい青空をしょって、
懐かしい光が立っていた。
(23)
「この・・・え?」
声が嗄れて巧く出ない。
一晩中呻いたり喘いだりした後、水の一滴すら口にしていないのだ。
夢でも、会えて嬉しい。
だが己を見る光は何だかひどく青ざめて怖い顔をしている。
――夢なら、もっと優しくしてくれればいいのに。
いつものように己の名を呼んで、事あるごとにニコニコ擦り寄って、
抱き締めてくれたらいいのに――
そう思うと止まっていた涙が再び溢れてぽろぽろと頬を濡らし、
それが恥ずかしく思えた明はそっと横向きに顔を伏せた。
そんな明を見て、光はますます表情を固くしていた。
「賀茂・・・オマエ――」
「?」
「誰が・・・誰がこんなこと!」
声の調子に明が驚いて見ると、光の大きな目からボロッと大粒の涙が溢れ出した。
「近衛――」
どうしたんだと云いかけて、ハッと己の今の格好に気づく。
衣裳が乱れ解けて半裸となった上に唇は破け、身体は痣だらけ。
この姿を見て光は何か勘違いをしているのではないだろうか。
事情を説明しようと焦って言葉を探しているうちに、光が大股で駆け寄ってきた。
「オレがついてりゃ、オマエをこんな目に遭わせたりしなかったのに――
ゴメンな、賀茂。ゴメン――」
そう云って光は明を抱き締め、
大丈夫だ、もう大丈夫だぞ、と繰り返してわんわん泣いた。
・・・ただでさえ生身の相手と会話するのは苦手な上に、
今抱き締めてくれる光の腕はとても力強くて温かくて、心地よい日溜りの匂いがする。
慌てて説明するのも面倒臭くなった明は、ひとまず目を閉じその心安らぐ感触に酔った。
(24)
「じゃあ、この痣とかは、妖しのせいなんだな」
自分でやるからいいと云うのに、光は強引に明を座らせテキパキと水を用意して、
固く絞った手拭いで明の全身を拭いてくれていた。
下袴を外し、微妙な部分にまで手を差し入れて他人に拭かれるのは恥ずかしかったが、
明はこうして光のなすがままに扱われるのが嫌いではなかった。
邪念のない手つきで、ごしごしと清められていく感覚が心地よい。
「うん」
「そうか、良かった。オレはてっきり・・・」
「夜盗にでもやられたと思ったかい?」
「ウン。でも、どっちにしたってオレが来たからにはもう大丈夫だ!
オレがそいつ倒して、オマエ護ってやるから」
たすき掛けした腕でジャッと水を絞り、笑顔で胸を叩いた光に明は溜め息をついた。
「簡単に言ってくれるね。ボクでも対処出来ない相手に、
キミがどうやって勝とうっていうんだい」
「この間一緒に妖し退治した時は、オマエに貰った御神刀で倒せたじゃん。
あれもう一遍貸してくれよ。夜になってそいつがオマエの中から出てきたら、
オレがやっつけてやる」
「あの御神刀は宮中に代々伝わる神宝。前回は都の危機ということで
特別に使用を許可されたが、一介の陰陽師のためになど軽々しく持ち出せる
ものじゃない。それに、もしキミが妖しの立場だったら、自分が刀で斬られる
かもしれないとわかっている状況で外に出ようだなんて思うかい?
・・・ずっとボクの体内にいれば安全なのに」
「う、それもそうだな。ってことは・・・じゃあどうすりゃいいんだよ!?」
「何か別のやり方を考える必要がある。未熟なボクでは対処出来なかったが、
他の陰陽師・・・たとえば倉田さんにこの状況を知らせれば、あるいは・・・」
明は目の裏に、陽気で騒々しいが腕は立つ先輩陰陽師の姿を思い浮かべた。
(25)
「よしっ、わかった!倉田さんを呼んで来りゃいいんだな!」
勢いよく起ちあがった光の袖に、だが明は思わず取りすがってしまった。
「ま、待ってくれ近衛」
「ん、どーした!?」
振り向いた光の瞳は、今にも駆け出していきそうに前向きで力強かった。
その瞳を見て明は、一人で再びこの場に残されるという事態に対して
一瞬弱気になってしまった己を恥じた。
「・・・何でもないさ。ただ、ボクも一緒に行くから少し待っていてくれ。
すぐに支度をする」
光が行ってしまったら、クチナハがまた体内で暴れ出すかもしれない。
またあのような思いをするくらいなら、だるさの残る身体を引き摺ってでも
光について外に行くほうがましだった。
だが、起ちあがろうとした途端喉の奥から細い悲鳴が洩れ、
明はその場に蹲ってしまった。
「はぅっ!・・・くっ・・・」
「賀茂!?どうしたんだよ」
「あぁ・・・」
光が助け起こすと、明はうっすらと頬を桜色に染めて耐えるように目を閉じている。
「んっ・・・んん・・・、あぅ・・・っ、・・・このえ・・・」
「・・・もしかして、そいつがまた中で暴れ出したのか!?」
目の縁に涙を滲ませて、明はこっくりと頷いた。
(26)
日中は夜よりは力が弱るらしいとは云え、クチナハは明が外に出ようとしたり
助けを求めようとしたりするたびに身内から明を責め、動きが取れなくさせる。
今また内部でうねるような運動が始まったのを感じ、明は身震いをした。
――だが、今までに比べるとこの動きは・・・?
体の芯からどうしようもなく甘い疼きが広がっていくのを覚えながらも、
訝しい思いが頭をかすめる。
妖し如きに責められて快楽を感じてしまう浅ましい己の姿など光の目から隠して
しまいたいと思うのに、置いていかれるのが怖くて、知らず知らずの内に明は
光の狩衣を握る手にぎゅっと力を込めていた。
そんな明の様子を見て、光は決意したように云った。
「よし、オレひとっ走り行って乗り物調達してくる!賀茂、そんなんじゃ
歩くの無理だろ。ホントは、外に出るのも辛いかも知れないけど・・・
車ん中でオレがずっと抱いて、手ぇ握っててやるから!それで、いいよな?」
乱れた息の下から薄く目を開いて明は光を見た。
いつも底抜けに明るい光が、ひどく真剣な男の顔をして己を見守っている。
そのことが可笑しくて、嬉しくて、泣き出したいような気持ちになった。
それと同時に、己のために奔走してくれる光の足手まといには決してなるまいと思った。
光の衣を握り締めていた手をそっと離して明は云った。
「気を遣わせてすまない、近衛。・・・でも、ボクはやっぱりここに残ることにするよ」
「なんで?遠慮してんのか?」
「いや・・・それもあるけど、いつもに比べると今日はどうも・・・動き、が大人しい
ような気がするんだ。これくらいなら一人で待っていられると、思う」
今までならこういう状況では、クチナハが分泌する疼きを生む淫液に
内部をジクジクと灼かれ、その上で更にクチナハに激しく動かれて、
明はなす術もなくのたうち悶えるより他に手がなかった。
それがどういうわけか、今日に限ってクチナハの動きが妙に緩慢だ。
奥の一点を突く動きも今までのような荒々しい勢いがないし、分泌される淫液も
普段より量が少ない気がする。
――弱っている、ような印象を明は後門で感じ取った。
(27)
「へ、そいつ今弱ってんの?どういうことだ?」
「わからない。特別なことは何もしていないはずだが・・・」
「特別なこと・・・?あっ」
光は急いで懐から一枚の紙片を取り出した。
「何だい?それは」
「護符なんだってさ。オマエの見舞いに渡してくれって、あかりから貰ったんだ。
さる親王様・・・一の宮様とか云う方がくれたんだって、云われたけど」
「一の宮?」
「知ってるのか?」
「帝に腹違いの兄宮が御ひと方おいでになるという話は聞いたことがあるが、
どのような方かまでは・・・近衛、ちょっとそれを見せてくれないか」
それは、明が見たことのない図柄だった。
一本の太い線が中心に向かって渦を巻く様子は、奇しくも蛇――クチナハを連想させる。
その護符を明が光から受け取る瞬間体内のクチナハが苦しむように大きく一つくねり、
次いでもともと緩慢だった動きが更に弱くなった。
――これだ。
明はにやりと赤い唇の端に微笑みをのぼらせた。
我が身が苛まれているさなかだと云うのに、妖しを追いつめられるかも知れぬ手立てが
見つかって心に攻撃的な歓びを覚えるのは、陰陽師としての血の成せる業だろうか。
妖しいまでに艶かしく美しいその表情に、己を抱きかかえる光が一瞬目を丸くし
ぞくりと身を震わせたことにも明は気づかない。
(28)
「あかりの君にはよくお礼を云っておいてくれ。この護符が効く妖しだということを
手がかりに、対処法が見つかるかもしれない。近衛、そこの筆と料紙を取ってくれ」
「あ、ああ」
さらさらと筆を走らせて護符の形状と図柄を写し取ると、明はそれを光に渡した。
「これを倉田さんの所に持って行って、事情を伝えて欲しい」
「わかった。任しとけ!」
渡された紙を大事に折り畳んで懐にしまい込み、光は改めて胸を叩いてみせた。
「じゃ、行ってくる!」
「すまないね。頼んだよ、近衛」
「あ、ちょっと待った」
いったん階を下りていきかけた光が、小走り気味に舞い戻ってきた。
「?」
「ちょっとだけな」
云うなり光は明を抱きしめその柔らかな唇を吸った。
面食らう明からぱっと顔を離し、背を向けて立つ。
「近衛・・・」
「・・・最近はオレとだって全然してないのに、妖しなんかにやられやがって。
オマエの中のそいつ、追い出したら、オレ思いっきりオマエのこと抱くからなっ!
覚悟しとけよ!?賀茂!」
答える暇も与えずにそれだけ云うと、光は照れ臭そうに振り返りもしないで
階から飛び下りて行ってしまった。
「・・・・・・」
自然と唇に指を遣る。
まったく光はいつも強引で素直で予想を超えていて、それでいてそんな光の
なすがままに扱われるのが、己は決して嫌いではないのだ。
緑がかった丸っこい小鳥が、チッ、チッ、と鳴きながら室内へ跳ねてくる。
「・・・ボクを、心配してくれたんだね」
懐かしい小さな友達を両手に掬い上げ、頬を寄せる。
あの頃は知らなかった温かな想いに満たされて、明はどちらに云うともなく
――ありがとう、と囁いた。
(29)
「えぇっ!倉田さん留守なの!?」
「地方での陰陽祭を執り行われるにより、今月中は戻られませぬ」
勇んで陰陽寮を訪ねた光だったが、倉田は都を離れていた。
「そんなぁ・・・」
途方に暮れる光の耳に、聞き覚えのある偉そうな声が飛び込んできた。
「そこにいるのは、近衛じゃないか?検非違使の。陰陽寮なんかで何をしている」
「お、緒方様!」
「――全く心当たりはないと云うんだな」
「はい。いつものように一人でその、・・・おりました時に、気づくとその者が側に居て」
「おまえの中に入った」
「はい」
緒方は光から事情を聞き出すと、すぐに乗り物を呼び賀茂邸につけさせた。
慣れない牛車で同道させられた光は揺れる車の中でしこたま頭をぶつけ、
ずれてしまった烏帽子を直そうと格闘している。
「この御符が効いたというのが分からないな。都一の天才陰陽師、賀茂明が尽くした
他のどんな手段でもそいつには敵わなかったのに、この御符だけが――」
「都一はやめてください。ボクはまだまだ未熟者ですよ。今回の件を通して
思い知りました」
寝床の上から半身だけ起こして、脇息に寄りかかった明が云った。
緒方は扇をパチンと鳴らしながら「ふ・・・ん」と考え込んでいる。
「緒方様、そのさ、一の宮様ってどんな方なんですか?」
漸く烏帽子を元通りにするのに成功した光が聞いた。
「一の宮か・・・私も直接お目にかかったことはないが・・・」
緒方が視線を少し上に遣って記憶を辿る。
(30)
「先の帝の第一皇子で、今上帝の腹違いの兄君。
御生母は宮家出身の更衣で血筋は高貴だが、確たる後ろ盾無くして入内されたため
苦労も多く、一の宮をお生みになってすぐ亡くなられたらしい。
それから暫くは母方の宮家で養育されていたが、長じてからは都を離れ、
何でも――陰陽術の研究に熱中していらした――とか」
「じゃあっ、その宮様も賀茂と同じ、陰陽師ってことか!?あ、いや、ことですか?」
緒方は曖昧に首を振った。
「いや。陰陽師という職業とは別に、貴人や知識人の中に独学で陰陽の道を学ぶ者は
少なくない。皇子ともなればその立場を活かして、大陸の貴重な陰陽書や国内外の古典を
収集されるのも容易いことだろう。だからそうした書物の中に賀茂が知らない御符の
記述があって、それがたまたま今回の妖しに効いたのかもしれないが――」
「じゃ、その宮様の所に行って御符のことが書かれた書物を見せて下さいって
云えばいいのかな?」
「ああ、それで解決する可能性もあるが、だがしかし――」
「・・・宮ご自身が、この妖しの主人である可能性・・・も」
明が眉根を寄せて呟いた。緒方が頷く。
「・・・あり得ないとは、云い切れないな」
(31)
「どういうことだ?オレにも分かるように説明してくれよ、賀茂」
「うん。つまり、こういうことだ。たとえば近衛、キミが犬を飼っていたとする」
「ふんふん」
「犬は主人には忠実な生き物だが、時には飼い主に反抗したり、
よその人に噛み付いたりすることもあるだろう。そんな時、キミならどうする?」
「うーん・・・まずは口で叱って、それでも駄目なら、可哀相だけど首輪を着けて
繋いでおくかなぁ」
「そうだね。陰陽師に使役される妖しの中には、隙あらば主人を倒して
自由を得ようとする、強力で危険なもの達もある。これは例えるなら、
言うことを聞かない"犬"だ。・・・それを抑えるためには、飼い主はその犬に合う
"首輪"を持っていなければならない」
「それが、御符か」
明がうん、と頷いた。
「単なる健康祈願や厄除けの御符だったら、陰陽師が何枚か持ち歩いていても
おかしくないけどね。倉田さんなんか、よく自筆の御符を都の人に配り歩いている
ようだし。でも、こんな珍しい御符をたまたま持ち歩いて、それが偶然ボクの妖しに
効いたというのはやはり考えにくい。宮がご自身の使役する妖しを操るために
持ち歩いていたと考えるのが自然だ。・・・それなら、宮が久しぶりに都に戻って
来られた日と妖しが現れた日が同じだったことの説明もつく」
「なるほどな。話はわかったけど・・・だったら、やっぱりその宮様んとこ行って
わけを話すのがいいんじゃねェか?お宅の妖しが逃げ出して困ってますって」
光は首を捻った。
よその犬が逃げ出していたら、まずその飼い主に知らせる。
それと同じではいけないのだろうか?
(32)
「勝手に逃げ出したのか、わざと放したのかが問題だ」
緒方が低い声で云った。
「宮がどのようなお人柄であるか詳しくは存じ上げないが、その境遇を考えれば
帝の兄でありながら強い後ろ盾を持たなかったため皇位とは無縁、
都人からも半ば忘れられかけた非運の皇子――という見方も出来る。
時の政治に不満を持つ皇族や朝廷人が帝を呪詛したり内裏に火を放ったりした事件は、
この国の歴史の中でこれまでにもあったことだ。一の宮がもし帝を恨んでおいでだと
すれば、まず帝の信頼厚い天才陰陽師として名を馳せる賀茂の身動きを取れなくさせ、
その間に帝やこの都に対して何らかの陰謀を企むことも十分考えられる」
「そんな・・・」
光は白い単姿で脇息に凭れている明を見た。
連日のクチナハとの攻防で疲れているのか目の下にうっすらと蒼い隈を作って、
少し姿勢を崩し首を前に傾けているその姿は普段より一層儚げに見える。
その明が良くわからない政治的思惑のために妖しに苦しめられ、しかもそれが
都や帝の危機に繋がっているかもしれないとすれば、これは一大事ではないか。
明を助けたいという気持ちに加え、都の人々の笑顔を守る検非違使としての正義感が
沸々と光の胸に湧き上がってきた。
「そんなことが起こってるかもしれないんなら、ますます放っておけねェ!
どうすりゃいいんだ!?よしっ、まずオレがその宮様のうちに乗り込んで――」
「いや、それは駄目だ。不遇な立場にあるとは云え相手は帝の皇子。
万一間違いだったり、無礼があったりしては――」
「ああ。それに今話したことがもし当たっているとすれば、何の準備もせずに
乗り込むのは丸腰で敵の懐に飛び込むようなものだ。危険過ぎる」
「でも、じゃあどうすりゃ――」
うーん、と三人で額を寄せ集めて考え込んだ。
(33)
「・・・法力勝れた聖の噂を、聞いたことがある」
ややあって、緒方がぽつりと呟いた。
「ヒジリ?」
「ああ。難波の出身で、長年仏道の修行に励み強い法力を得たとか。
その聖が最近洛外の山中に庵を結んで修行をし、時折街に下りて来ては
人々の病を治したり物の怪を退治したりして、評判を呼んでいるそうな」
「そのお坊さんを連れて来たら、賀茂の中の妖しも退治してくれるかな?」
「わからんが・・・他に手立てもないなら、坊主に相談してみるのもいいんじゃないかと
思っただけだ」
緒方が難しい顔でふんぞり返った。
もし無駄に終わっても己のせいではないと言いたげだ。だが、本当の所は緒方も
途方に暮れているのだろう。
「近衛・・・」
明が心配そうに光を見る。光は安心させるようににっこりと笑顔を見せた。
「賀茂、そんな顔すんなって。オレ、そのお坊さんに訳話してここに来てもらう。
嫌だって云われたら、地面に頭つけてでも来てもらう。
・・・きっと何とかなるさ!大丈夫!」
思い切り笑うと真っ白な歯がこぼれる。
その底抜けの前向きさが眩しくて、明は目を細めた。
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