裏階段 ヒカル編 121 - 125


(121)
進藤が不気味な存在であることには違いなかった。
今はこうしてまだオレの腕力で組み伏せられる。
だが将来、それこそとても重要な時勢に強大な敵となってオレの前に立ちふさがり、
進藤によってオレが組み伏せられ地に額を擦り付けられる時がやって来るかもしれない。
本人はあまり気にしていないように見える。
自分が持つ力を自覚していないようなところがある…が、
彼の深い部分はわからない。ひょっとしたら相当な野心を抱えているのかもしれない。
今こうして盤面を見つめながら、その時その時の局面をいろんな方向から分析し
シュミレートし、もう一度対戦したらそれこそ手酷く叩きのめされるかもしれない。
まだ幼さが抜け切らない目前の少年の前途には果てしない可能性が潜んでいる。


(122)
「緒方先生…」
食い入るようにこちらが見つめている視線に対抗するような強い視線を進藤が返して来た。
申し込まれれば受けて立つつもりで身構えた。
「…オレ、腹へっちゃったよオ…」
魂が抜けたような声で進藤が訴えた。
年の離れた弟でも出来たような、今まで自分が持ち合わせているとは思わなかった
柔らかな感情が湧いた。
「そうだな、飯にするか。何でも好きなものを食わせてやる」
振り替えると、いつのまにやら数人の地元の常連客らがオレ達の背後を囲んでいた。


(123)
その彼等から旨い飯屋を教えてもらい、遅い夕食をとった後適当な宿を探した。
特に観光地でもなかっただけに場所は限られてくる。
ビジネスホテルよりは風呂が広いだろうという理由だけで、それらしい建物に車を入れた。なるべく地味な装飾のところを選んだつもりだった。
車がビニール地のカーテンを潜る時、僅かに進藤は緊張した表情を見せた。だが珍しく特に不満を
口にしなかった。それだけ互いに疲労していた。
朝まで眠れればそれで良かったのだ。
汗を流す程度に湯に浸かり、広いベッドに横たわる。疲れてはいたが、気分は悪くない。「うげーっ、ピンクしかない」
オレの後に風呂に入ろうとして、脱衣所に置いてあったワンピース型の部屋着を見て進藤が唸った。
早い者勝ちで先にオレがブルーの部屋着を取ったからだ。
「オレがそっちを着るわけにはいかんだろう」
と言っても、若干サイズが大きいだけで同様のデザインの中途半端な丈の部屋着で、ベッドに
寝転がるオレの姿もとても人に見せられたものではなかったのだが。


(124)
「いいよ、オレ自分のジャージ着るから」
ぱたぱた部屋の中を進藤が動き回る気配の中でオレは次第に眠りに落ちていった。

世の中から、日常から切り離された空間で進藤と二人で過ごすのが
こんなに心休まるものだと思えることは、以前の自分からは想像も出来なかった。
進藤がどう感じているかは知らないが。
確かに進藤はsexは苦手らしいのだが、それでもアキラやオレとそういう時間を過ごしている。
先生とはどうだったのか。
それはわからない。
先生は今でもsaiを追い続けているが、その幻影を進藤自身に求めたりはしないだろう。
そう願うしかなかった。
saiを知り、saiに飢え、saiを求めて自分のところへとやって来る者達を進藤は拒めず
かわりに自分を与えているように見えた。
自分の飢えをそうやって満たそうとするように。


(125)
進藤とsaiの関係が、どうやら他人の想像を遥かに超える何か特殊なものであると
感じ始めたのはいつ頃からだっただろうか。


十段戦最終第五局で先生を打ち破った時点で喜びは得られなかった。
先生への執着が消えた時、オレの中で何かが大きく変わったのは確かだった。
だがそれ以上に先生もまた、第四局で直接対決したオレでなければ気付かなかった変化が、
まさに最終局面で大きく表に出た。
より本質に近い姿に立ち戻っただけ、そういう印象もあった。だが世間一般的には
先生の年齢ではそれは不可能に近いものだった。
何故ならそれが「引退」という、「日本のトッププロ棋士塔矢行洋」という名を捨てる決意を
伴うものだったからだ。
そうして先生とオレと棲む世界は完全に隔てられた。



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