日記 121 - 125
(121)
手の中の小さな紙片をヒカルは、目を細めて見つめていた。
「すごく奇麗だったから…枯れるのを見たくなくて、一本だけもらって残りはお母さんに
あげた…」
ヒカルは、独り言のように続ける。そこに緒方がいることを忘れているのではないかと思った。
「押し花の作り方なんて知らないから、お母さんに教えてもらって…結構上手く出来てる
と思わねえ?」
緒方に話しかけながらも、視線はしおりから離れない。
残酷な奴だ――――――と、思った。「塔矢に逢えない」と自分に縋り付きながら、
心の中はアキラただ一人で、占められている。
緒方の気持ちにだって、薄々気づいているだろうに……。
愛おしげにリンドウを見つめ続けるヒカルが、いじらしくもあり、憎らしくもあった。
「……先生?」
ヒカルが、緒方の顔を覗き込んできた。不思議そうに大きな瞳を瞬かせる。
緒方はヒカルの腕を掴むと、そのまま床の上に引き倒した。
(122)
ヒカルは、一瞬何が起こったのか理解できなかった。
「わかっているのか?」
真上から、低い冷たい声が降ってきた。身体が勝手に身構えてしまう。
「ここに、泊まるってことは…ただ、泊まるだけじゃないんだぞ?」
緒方の強い視線に射すくめられて、ヒカルは何も言えなかった。
「………わかってるよ…」
振り絞るように漸く一言だけ口にした。だけど、それと同時にヒカルは緒方から視線を
逸らした。どうしてもその目を真っ直ぐ見られなかった。
「…わかってない…」
緒方はヒカルの顎を掴み、無理やり前を向かせると、自分と視線を合わせた。
一体緒方は何が言いたいのだろう。訳がわからない。それより何より、この体勢は
止めて欲しい。……怖い。緒方の瞳があの時の和谷に重なる。まるで似ていないのに…。
和谷の目は情欲に滾っていた。緒方の瞳は冷たすぎるくらい何の感情も宿していない。
そんなヒカルを見て、緒方は目元を和らげると、震えるその額に口づけた。そのまま
かぶさるように抱きしめ、ヒカルの耳元で囁いた。
「“枯れる”のを見たくなくてあげてしまったリンドウと同じだ…アキラ君が離れていくのが
怖いから…自分から逃げたんだ、お前は…」
「そのまま…俺の所に逃げ込んできたんだ…アキラ君に気持ちを残したままで…」
唇が震える。「違う」と言いたいのに言えなかった。
「じゃあ、どうすればよかったの?オレ、塔矢にキスされても、抱きしめられても、前みたいに
嬉しいとだけ思えなかった…塔矢に対してこんな気持ちになるなんて絶対イヤだ…」
酷いことを言っていると思った…。これじゃあ、アキラ以外はどうでもいいと言っているみたいだ…。
誰でもよかった訳じゃない。でも……。ごめんなさい。だけど、一人はイヤなんだ。
緒方は静かに首を振った。
「俺はお前が思っているほど、大人じゃないんだ…」
瞳が寂しげに伏せられた。
「手に入れるなら全部欲しい…抜け殻だけ手に入れたって仕方がない…」
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ヒカルは打ちのめされた。緒方に拒絶されたことにではない。和谷に乱暴されたことよりも、
緒方の優しさにつけ込むような真似をした自分のほうが厭わしい。最低だ。恥ずかしくて、
消えてしまいたい。自分だけが辛いと思って緒方を傷つけた。
―――――塔矢…塔矢はどう思ったんだろう……一緒に帰ろうって約束したのに…。
久しぶりに感じたアキラの体温。温かくて、優しかった。あの日以来ずっと、喉の奥が
詰まっていたような感じがしていたのに、アキラに触れた瞬間、急に胸の苦しさが取れて、
息をするのが楽になった。
自分を見つめる優しい瞳。そこに映るヒカルの姿が変わってしまったと思われるのが
怖かった。
「オレ、ホントは…ホントは……塔矢を嫌いになるのが怖かったんじゃない…
塔矢に嫌われるのが怖かったんだ…」
いつの間にか気持ちをすり替えようとしていた。その方が楽だったから…。
「だって…オレ…」
先の言葉が出てこない…喉が詰まる。緒方は黙ってヒカルの言葉を待っている。
どんなに考えても望みは一つだけだった。目の前の緒方の顔がぼやける。
「…逢いたい…」
一旦口に出してしまうと、止めることが出来なかった。
「塔矢に逢いたい……」
「嫌われても…遠くから見ることだけでもいいから…」
ヒカルの瞳から大粒の涙が零れ、そのまま目尻を通って、髪を濡らしていった。
「ずっと、我慢していたのか?」
緒方が指で涙をすくい上げた。ヒカルは、首を振った。泣くだけならいっぱい泣いた。
どこから、こんなに溢れてくるのだろうと不思議になるくらいに……。ただ、声を上げて
泣いたことはなかった。
「逢いたい……逢いたいよぉ…」
泣きじゃくるヒカルを緒方は優しく抱きしめてくれた。
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緒方の腕の中は温かくて気持ちがいい。ヒカルは、緒方にしがみついた。
「先生…オレ、苦しい…すごく寂しくて…苦しいんだ…」
助けて欲しかった。アキラに逢いたくて、逢いたくて、でも勇気が出なくて…寂しくて
辛い。
「助けて…」
緒方の腕に力がこもった。緒方は、ヒカルの唇に自分のそれを押し当てた。深く合わされた
唇の隙間から舌が入り込んできた。驚き、怖れ、戸惑いながらも、ヒカルは緒方に応えようとした。
静かに唇が離れていく。ヒカルは閉じていた目を開けた。緒方と視線が絡み合った。
「アキラ君の代わりに…」
緒方の言葉をヒカルは遮った。
「…塔矢の代わりなんて誰にもできないよ…だって、塔矢は…オレの塔矢は一人だけしかいない…
………でも…今は、先生が欲しい…」
ヒカルはそう言って、緒方に口づけた。
「塔矢が好きだ……それは変わらない…だから…今だけ…」
身代わりはイヤだと緒方は言った。身代わりではない。アキラも緒方も一人しかいない。
緒方の瞳には、自分が代わりを欲しているように見えているのかもしれない……。でも…
それでも欲しい……同情でも何でもいい…必要なのだ。今だけでいいから…緒方が欲しい。
大きな手と力強い腕、温かい胸が欲しい。
「…お願いだから…オレを助けて……どうしても欲しいんだ…先生が…」
緒方の胸に顔を埋めた。涙が広い胸を濡らす。
緒方の腕が、ヒカルの背中をすくい上げた。そのまま、奥へと運ばれる。ヒカルは自分の
腕を緒方の首に回した。力の入らないその腕で緒方を引き寄せると、もう一度薄い唇に
キスをした。
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―――――先生が欲しい…
その言葉を聞いた瞬間、緒方は降参した。むなしい抵抗を続けていた気がする。ずっと、
ヒカルが欲しかった。喉から手が出るほどに……。身代わりでも何でもよかった。だが、
自分にも、プライドがあってそれを認めたくなかったのだ。
本当は、ヒカルの涙を見たときから、緒方の負けは決まっていた。ヒカルがいじらしくて、
可哀想だった。アキラにすべてを話してしまいたい。しかし、そんなこと出来るわけもなかった。
ヒカルをそっと、寝台の上に横たえた。乱暴に扱わないように、細心の注意を払う。
服に手を掛けると、ヒカルの身体が僅かに震えた。緒方は手を止めた。
「……いいから…やめないで…」
ヒカルは目を閉じて、小さな声で言った。
緒方の手によって、ヒカルの華奢な身体が徐々に露わになっていく。緒方は、あまりに
薄いその胸に驚いた。もともと頑強な方ではない。だが、これほど痩せてはいなかった。
皮膚の下に浮いて見えるあばら骨を一本一本なぞる。緒方の指の動きにあわせるように、
ヒカルが小さく吐息を漏らす。細い喉を仰け反らせ、痩せた胸を震わせるその姿は酷く
痛々しい。本当に簡単に壊れてしまいそうだった。
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