裏階段 ヒカル編 126 - 130
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先生の体も魂もオレの指先を掠めて遥か彼方へと飛び立っていってしまった。
誰にもそうとは告げず先生はsaiを追う旅に出た。
先生の目的はsaiそのものではなく、もう一度saiと出会う事で到達出来るかもしれない
ある領域であった。
それだけがオレにとっての唯一の救いであった。
ただ現実は綺麗事では済まない。
奪ったのではなく、師匠から譲られたタイトルだと周囲は冷ややかにオレを見る。
祝いの酒を呑んでも酔えない、そんな夜がしばらく続いた。
感心するほどにまめにアキラは、そんなオレのマンションに通った。
当て付けるようにオレが例の彼女の部屋に出入りし、進藤に強い関心があることを隠さず度々口にしてもアキラは動じなかった。
どんな事があっても結局オレはじぶんのところに戻ってくる、
そういう確信をアキラは持ったようだった。
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彼女の方も特にアキラに関して張り合ったり詮索するような行動をとらなくなった。
彼女とアキラに交互に慰められ、ようやくオレは損ねた機嫌を直した。
男というものは甘やかせてくれる存在がいるとどこまでも
幼児化してしまうものだと実感した。
それにやはり大きなタイトルを獲得した事は、それなりに環境に変化をもたらした。
新たな人間関係――人脈も発生し、若手の旗手を担う者同士として常に対比させられ
競わされていたあの倉田よりも一歩先に出たことで、世間はオレに注目し始めた。
遥か彼方の目標であった先生という基準から、もっと現実的な視点で周囲を見つめた時に
自分がそれなりの位置にいる事がわかった。
桑原があれだけオレに干渉したのも、オレの存在感に怯えたからではないだろうか。
そんなふうに前向きに考えられるようになった。
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一方、棋院ですら一切進藤と顔を合わせる事がなくなっていた。
かなり進藤に怯えられ避けられているのは想像できた。
病院での一件を思えば無理もない。
ただ、あの時は自分も頭に血が昇り過ぎていたという反省をするくらいの冷静さは
取り戻していた。
それでもsaiの正体を進藤に問い質すという意欲は消えていなかったが。
saiに繋がる手掛かりは唯一進藤のみだからだ。
saiを引きずり出すには進藤を攻めるしかない。そればかり考え、「その時」に備え
アキラに対してより肉体的、精神的に辱められ苦痛を負う行為を
実験的に施したりもした。
進藤にはアキラほどにそういう方面の耐性があるとは思えなかった。
進藤の身をある状況に確保する事さえ出来れば、一気に陥落させる自信があった。
そんなある時に地方のイベントに進藤と参加する事になったのだ。
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イベントの会場となるホテルは山深い川沿いの小さな温泉街の中心地にある。
湯に入る他に娯楽らしい娯楽のない場所で、さほどに囲碁が浸透しては
いない地域と聞いてはいるが、イベントには毎年かなりの地元の人々が集まる。
川の両側に迫る山あいは新緑で埋まり、湿度のある清らかで濃厚な空気が満ちていた。
日本でも有数の清流地域でもあり、イベント後に後援会の者らに誘われた店では
旨い酒が飲めた。
すっかり上機嫌で狭い温泉街を店をはしごする道すがら、夜空を見上げると
控えめに山稜をかすめて浮かぶ月があった。
その月からから離れた空に降るほどに輝く小さな星がひしめく。
その中には月を、あるいは太陽を遥かに凌ぐ巨星もあるだろう。
何か忘れ物を思い出すようにホテルに戻った。
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遅くまで開放されていたイベント会場の中で、まばらに人が集まっているいくつかの
テーブルの中に進藤の姿があった。
高齢者に囲まれ、その彼等に堂々とした指導っぷりを見せる進藤の姿を見た時、
ふと、自分が彼をこの世界に引き込んだ者の1人だと言う誇らし気な気分を感じた。
プロ棋士進藤ヒカルを生み出した流れはオレに因るものが大きい。その意味で、
進藤の人生の一部を所有し自由にする権利がオレにはある――
酔った頭で本気でそう思った。
緒方十段。タイトルホルダー。天下の塔矢門下生の出世頭。
何も恐れるものはない。残りのタイトルだって奪ってやる。
あの塔矢行洋から何もかも、saiも進藤ヒカルをもオレの手中に収めてみせる、
声に出さず口の中で呟きながら進藤の傍に近付いていった。
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