天涯硝子 13


(13)
夏の陽はこの時間でもまだ残っていて、風は暑いままだ。
ふたりは並んで歩き、たわいない会話をしながら商店街を抜けて、白龍のあるビルに入った。
一階の階段の脇にあるエレベーターの前に立ったヒカルの腕を、冴木は乱暴に掴んだ。
「二階じゃないか。こっち来いよ」
ヒカルは引っ張られるようにして階段を登り、踊り場でくるりと振り向いた冴木に力強く引き寄せられた。
「あっ…」
冴木の胸にぶつかったかと思うと、そのままきつく抱きしめられる。
その瞬間、冴木がここで何をしようとしているかわかった。そして、同時にこんなところで?と考え、
ヒカルは少し戸惑った。
冴木が一階から見えない場所の壁に寄りかかり、ヒカルの顎をとらえて上向かせる。
ヒカルは爪先立ちになり、胸を反らせ両腕を、少しかがみ込んだ冴木の首にからませて、目を閉じた。
冴木がヒカルの小さな口に、噛みつくように口付ける。
薄く開けた唇の隙間から、冴木の舌が暴れ込んで来る。その舌に自分の舌を絡めとられ、ヒカルは息を詰めた。
冴木がヒカルの背中にまわした腕に力を込め、すくい上げるようにヒカルを抱きしめる。
ヒカルの爪先が浮いた。

身体はしっかりと抱きこまれていたものの、浮いた両足は不安定に揺れていた。
その足の間に冴木が膝を割り入れて来る。
「…んっ、冴木さん…誰か来たら…」
やつと唇が離れたすきに、ヒカルは喘ぎながら言った。
冴木はストンとヒカルをおろし、床に立たせると少しおかしそうに笑い、ヒカルのこめかみと明るい前髪に軽くキスしながら言った。
「何を、言うのかと思ったら、…会いたかったって言えよ」
ヒカルもつられて笑顔になり、身体を冴木にもたれかけながら応えた。
「…会いたかった。…ずっとだよ」
鼻先をくすぐる冴木のかすかな匂いと、頬寄せた胸から伝わる熱い体温。
ヒカルはふと、佐為にも身体があったら、こんな風に匂いがして、身体の熱を感じる瞬間があったかもしれないと思った。
上の階から人が下りてくる足音がして来た。
一階からも数人の男性の声がし、階段を使いそうな話し声が聞こえる。
時刻はもう六時近い。勤め帰りの人もいれば、土曜の夜を楽しもうと繰り出してきた人たちで、街は賑わい始めている。
この階段の踊り場は、今、そんな人たちで溢れる街の、ほんの僅かの時間生まれた、ふたりだけの
空間なのだ。それも、もう、シャボンのように壊れようとしている。
冴木はもう一度ヒカルを抱きしめ、名残り惜しそうにヒカルを見つめながら腕をほどいた。
ふたりの間に流れ込む空気が冷たい。…こんなことが前にもあった。
「行こう」
冴木はヒカルの手をとって、階段を登った。

冴木の部屋に入り、ヒカルが靴を脱いでいると後ろから冴木に抱きつかれた。
「あっ、冴木さん、靴脱げないよ」
ヒカルは安定感をなくし、フラフラと床に崩れた。ゴトゴトと床に、途中で買って来たペットボトル等が散らばる。
「ああ、ごめん」
腕を引かれ、立ち上がったヒカルは上目使いに冴木を見て尋ねた。
「あのさ、今日泊まってってもいい?」
「…帰すつもりはないけどな」
「……電話した時さ、そのこと聞かなかったなと思って」
明日はふたりとも仕事はないのだと了解して、ほっとする。では、ふたりで過ごす時間はたっぷりあるのだ。焦ることはない。
「じゃあ、一局打とうよ。この前負けてから、誰かと打って勝ちたくてしょうがないんだ」
冴木は散らばったペットボトルを拾い上げ、笑いながら言った。
「何だ? 負けてなんか、やらないぞ」
ヒカルは部屋の隅に寄せてあった碁盤を引き出し、空のマグカップを用意してくる冴木を待った。
そんなヒカルの様子を見ていた冴木が言う。
「やっぱり違うな、碁を打つとなると」
「え?」
「今日、最初に俺に会った時からのおまえの顔は、どことなく緊張してたのに、今はイキイキしてるぞ。楽しそうだ」



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