裏階段 ヒカル編 131 - 135


(131)


それからの事はあまり正確に覚えていない。
『今からオレと打ってよ』
そう誘われて進藤と自室まで戻った。それは確かだった。


『…オレでガマンしてよ』
月明かりの下、嵐のように舞い散る桜の花びらの中で、その幹の下で進藤が魅惑的に微笑む。
風に前髪と、中学の制服らしき白いシャツの襟元が揺れている。
オレは息を飲み、その体に触れようと手を伸ばす。
進藤は逃げなかった。オレの指がその体に掛かり、シャツのボタンを外す間も進藤は黙ったまま
その大きな黒い瞳でオレを見つめ、じっとしていた。
オレの手が乱暴にシャツを引っ張るとクスリと笑み、『焦らないでよ』と囁く。
『…今夜は、オレ、逃げないよ…』
前を開くとシャツと同様に白い素肌があった。そう、やけに白かった。
進藤の表情も、指先も、全てが白く光を放つように闇に浮かんでいた。
そのシャツの前を左右に荒々しく開き、その胸元に唇を触れさせた。
小さく進藤が吐息を漏らすのを聞いた。


(132)
その時、何かの匂いが鼻についた。目の前の白い素肌に似つかわしくない、血生臭さだった。
進藤がどこか怪我をしているのかと思い、服を全て脱がそうとした。するとするりとその体が
オレの手から離れ、そのまま幹の向こう側に隠れた。
「待て…!」
慌てて追い、その腕を掴んだ。そしてハッとなった。
捕らえた腕の主は進藤とは違う長身の者の後ろ姿だったからだ。
「…お前がsaiか?」
返事は無い。ほぼ腰元まで全身を隠すような長い黒髪が風に揺れている。
その肩を掴んでこちらを向かせる。古風な白い着物の裾が翻った。
そこから覗く細い手首も白くて長い指も、官能的だあるが女性の骨格ではない。
顔の半分も髪で隠れているが、その下にうす紅をひいた美しいかたちの唇があった。
その口が開き、何かを語ろうと動く。
だが言葉となって耳に入って来ない。すると相手は諦めたようにため息をつく。
まるで選ばれていない、その資格が無い者には声が届かぬと言いたげに。
カッとなってその肩を掴み体の下に組み敷いた。
髪が舞って、その下の表情が一瞬露になった。


(133)
端正に整った、非の打ち所のないこの世のものとは思えないほどの美しい顔があった。
だがその表情は、自分と、自分を組み敷く相手を共に哀れむような強い悲しげな色を顕わしていた。
「オレは…オレはお前とは違う…!このまま消えたりはしない…!」
思わずそう叫んでいた。次の瞬間相手の体が何万もの桜の花びらとなって弾け散り、
変わってそこに進藤の体が横たわっていた。白く輝く無垢で美しい裸身のままだ。
『…オレでガマンしてよ…』
進藤の手が伸びて、オレの頬を撫でる。
一気に体内に熱が奔り、その身にむしゃぶりつく。
するとやはり濃厚な血の匂いが迫って来て、咽せて咳き込む。
ふと見ると、上半身を起こした進藤がその手の平に何かを乗せている。
それはまだ蠢いている真っ赤に血に染まった人の臓器だった。
「…進藤…?」
そしてオレは自分の体を見た。衣服が血に染まっていて、自ら開くと
ポッカリと胸の部分が抉り取られていた。
自分が居た周囲に血溜まりが出来ていて今なお胸から血が止め処なく流れ出ている。


(134)
「う、うわああっ!」
驚いてオレが体を離すと、進藤はぼんやりと血まみれの臓器を見つめ、玩具のように手で弄ぶ。
「…返せ…!」
オレが再び進藤に掴み掛かろうとすると、進藤はひらりとオレの手から逃れて立ち上がり、
クスクス笑いながらそれを放り投げた。
それを視線で追うと、投げられた臓器を受け取る白い手が現われた。
アキラだった。
アキラは受け取った臓器の血を同じように赤い自分の舌でぺロリと一舐めする。
胸から止まらぬ血がオレの下半身を染め、オレはその場に膝をつく。
進藤とアキラはオレの臓器を投げ合い、笑いながら2人で遠くへ去って行く――。


気が付いた時はオレは朝日が差し込む部屋の窓際の椅子の上にいた。
碁盤を前にして眠りこけていたらしい。
石は片付けられ、蓋をされた碁笥がきちんと並んで脇に置かれていた。
頭の片隅にぼんやりと映る残像は、正面に座った進藤の頬が、月明かりに滑らかなラインを
浮かび上がらせて座っていた事だった。
『オレでガマンしてよ』
saiと打たせろと迫ったオレに、まるでそれが当然のように進藤はそう答えた。
そして夕べは夢とも現実のものとも区別がつかない時間を進藤とここで過ごしたのだ。


(135)

翌朝、鉛のように重たい頭を抱えて会場に向かい、進藤の姿を探した。
進藤に問いたかった。おまえは何者なのだと。
おまえに関わった者は、何故こうも何かに追い詰められるように
心を狂わされるのかと。
だが既に進藤はイベントの会場であったホテルから出て東京に向かった後だった。
そしてその日を境にして、突然、進藤は手合いに来なくなったのだった。


柔らかなものがオレの唇に触れたような気がした。
小さなアキラの唇の感触が蘇り、咄嗟に目を開け相手の肩を掴もうとしたが、そこには
誰も居なかった。
赤みがかったホテルの室内灯の中に照らされた天井が目に入ったと同時に、微かな寝息が
聞こえる。
すぐ隣で進藤がスヤスヤと眠りこけている。
気のせいかと思った。進藤はアキラのようなああいう類の悪戯はしないだろう。
時計を見るとそれ程時刻は過ぎてはいなかった。
長い夢を見ていたような気がしたが、その割に疲労感はなかった。



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