日記 131 - 135


(131)
 目を覚ましたとき、緒方はいなかった。ヒカルは、糊のきいた寝間着を着せられ、
タオルケットにくるまれて眠っていた。以前泊まったときもこの寝間着だった。
「……緒方先生…」
小さな声で名前を呼んだ。返事は返ってこない。ヒカルは急に不安になって、大きな声で
何度も緒方を呼んだ。
「先生…!先生!」
 涙混じりの叫ぶような呼びかけに、緒方が漸く応えてくれた。
「なんだ…起きたのか?」
ドアの向こうからひょいと顔を出した緒方に、ヒカルは飛びついた。いや、飛びつこうとしたのだが、
全身がだるくてベッドの上から一歩も動けなかった。
 半べそをかいているヒカルに、「ちょっと待っていろ」と言い残して、緒方はドアの向こうに
消えてしまった。ほんの五分ほどで、緒方は戻ってきたのだが、彼が戻ってくるまでの
時間を恐ろしく長く感じた。
 再び現れた緒方は、手にトレイを持っていった。湯気の立ちのぼるスープの入った皿が
のっていた。サイドボードにそれを置き、緒方はヒカルをタオルケットごと抱き寄せた。
 ヒカルを抱え込むようにして、皿を持つ。スープを一匙掬って、ヒカルの前に差し出した。
「……いらない…」
ヒカルは首を振った。だって、食べたくない。何も欲しくないのだ。
「オレはお前の頼みを聞いてやっただろう?お前も一つくらいオレのお願いを聞いてくれても
 いいんじゃないか?」
お願い?これが?ヒカルは緒方の顔をまじまじと見つめた。
「せっかく、お前のために作ったんだ。」
まじめな顔で緒方は言った。


(132)
 確かに緒方には我が儘言って迷惑ばかりかけている。これで緒方の気が済むのなら…。
ヒカルは目の前に出されたスプーンにそっと口を付けた。
―――――温かい…
温かな液体が喉を通って、ヒカルの全身を暖めてくれるようだった。それを飲み干すと、
また一匙差し出された。
 緒方はヒカルの口元に何度もスープを運んだ。ヒカルはそれを受け入れた。まるで、
お腹をすかせた雛鳥に、せっせと餌を運ぶ親鳥のようだ。

 「美味かったか?」
お腹が満たされ、半分眠りかけているヒカルに緒方は訊いた。ヒカルは小さく頷いた。
「そうか…レトルトでも結構美味いもんだろ?」
「…!先生が作ったんじゃないの?」
 飛び起きようとしたヒカルの肩を軽く押さえて、緒方は悪戯っぽく笑った。
「もう寝ろ。」
頭を軽くポンポンと叩かれた。灯りを消して、部屋を出ていく緒方の背中に
「…お休みなさい。ありがとう。」
と、ヒカルは言った。彼は振り返って、じっとヒカルを見たが、表情はわからなかった。
 その夜は、よく眠れた。あの帳面は必要なかった。身体も心もほこほこと温かくて、
気持ちよかった。


(133)
 自宅に帰ると、両親が待っていた。どうやら眠っていないらしい。一応、緒方が連絡を
してくれていたようだが、それでも眠らずに待っていてくれた。当たり前だと思う。今の
自分の姿を見れば、心配せずにはいられないだろう。シャツもズボンもサイズが一回りも
二回りも小さくなって、服の中で身体が泳いでいる。
 ヒカルは素直に「ごめんなさい」と謝った。母があれこれと世話を焼く。いつもなら
鬱陶しく感じるが、今日は素直に嬉しいと思った。
「お母さん…」
ヒカルの呼びかけに母は「なあに?」と無理に笑顔で答えた。
「お腹がすいた…スープ飲みたい…」
「お母さんの作ったヤツ…」
 母は最初ポカンとしていたが、父親に促されて慌てて台所へ駆け込んだ。ヒカルの気が
変わってしまわないうちに作らなければと思ったのだろう。

 ヒカルがスープをすする姿を二人がジッと見つめていた。母の作ったスープの味は
緒方のところで飲んだものとは味が全然違っていた。でも、どちらも温かくて、ヒカルの
凍えた身体を芯から暖めてくれた。 最後まで奇麗に飲み干して、「ごちそうさま」と
言うと母は泣き出してしまった。
 ヒカルは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。何も言うことが出来なくて、黙って自室に
戻った。


(134)
 ヒカルは鞄を机に置くと、ベッドに寝ころんだ。昨日のこと、今日のこと、いろんなことを
考えた。
 今日、家に戻るとき、緒方は途中まで送ってくれた。別れの間際、緒方はヒカルに二つ
約束をさせた。一つは食事をきちんと取ること。もう一つは―――――――

 『アキラ君に逢いにいったほうがいい…』
緒方は、車から降りようとするヒカルの腕を掴んでいった。
『…!や…やだ…!』
ヒカルは激しく首を振った。緒方の手をふりほどいて逃げようとした。
『逢わなくても、逢っても辛いなら…逢った方がいい…』
緒方の口調は優しかった。涙が出そうになった。逢えるものなら自分も逢いたい…。
『でも…』
と、後込みするヒカルを抱き寄せ、視線をあわせる。
『それまで、家には来るな。』
ヒカルは絶句した。身体が小刻みに震える。
『約束だ…』
ヒカルが何も言っていないのに、緒方は一言そう言い残して去ってしまった。

 「ひでえよ…先生…」
あんなことを言われたら、余計に辛くなる。本当は、逢いたくて仕方がないのだ。
逢いたい。逢いたい。逢いたい。頭の中は、アキラに逢うことでいっぱいになった。
「逢わなかったら…もう先生のとこにも行っちゃいけネエのかな…」
「先生にも逢えなくなったら…オレ…」
ヒカルは一人になることを怖れた。和谷にも和谷に関係する伊角達にも会えない。会いたくない。
今ヒカルの側にいてくれるのは、緒方だけだ。ヒカルは自分を酷く頼りない存在だと思った。
母犬にくっついて離れない子犬のようだ。少しでも姿が見えないと不安で不安で仕方がない。
緒方にまで見捨てられたら、どうすればいいのかわからない。勝手に一人で約束を決めて
しまうなんて……。
 そこまで、考えてふと気がついた。もしかしたら、緒方はアキラに逢うための理由をくれたのかもしれない。
 でも、アキラになんて言おう。本当のことなんて、とてもじゃないけど言えない。もし、
アキラに軽蔑されたらと思うと死にたくなるくらい悲しい。
 ヒカルは途方に暮れた。いくら考えても答えは出なかった。


(135)
 水を飲もうと階下に降りた。両親の姿は見えなかった。台所を覗いてみると、母が
テーブルに突っ伏して、うたた寝をしていた。父の姿は何処にもなかった。
「あのまま、会社に行ったのかな…」
一晩中起きて待っていた両親のことを考えて、ヒカルは自分が恥ずかしくなった。

 電話の前で暫く逡巡した。意を決して、受話器を取る。暗記している番号を押した。
三〜四回呼び出し音が鳴って、電話が取られた。…と、思った。だが、受話器の向こうから
聞こえた声はヒカルの望んだ相手ではなかった。機械で合成された女の声が、主の留守を
告げる。
 たったそれだけのことで、あちこちからかき集めて漸く築いた勇気は簡単に挫けてしまった。
ヒカルは黙って受話器を置いた。
 しょんぼりと机の前に座った。
「直接話そうと思うからダメなのかな…?」
そうだ。手紙を書こう。今まで、手紙など書いたことはないけれど、話をするよりましかも
しれない。



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