平安幻想異聞録-異聞- 133 - 136
(133)
紫宸殿の正面には、昔から多くの殿上人に愛され、その栄華の象徴と
されてきた左近の桜、右近の橘。
だが、その名にし負う二本の名木も今日ばかりは影が薄い。
紫宸殿の前庭には、白、黄色、薄藤、薄紅と、大小とりどりの菊の花が
運び込まれ、その贅を競い合っているからだ。
『重陽の節会』。この日は、長寿を願って菊酒を飲み、菊にちなんだ歌を
交わし、それぞれが持ち寄った菊の花の美しさを競う菊競べに興じる。
空は綺麗に晴れていたが、今日は少々風が強い。
貴族達はその装束のすそを風にはためかせながら、続々と紫宸殿に集まりつつ
あった。
会場を見渡す帝の高御座より少し下がった横。
紫宸殿の高欄の内には高位の公家達が、ずらりと居住まいを正して
座っている。
天皇の座す場所の向かってすぐ右下、桜の方には藤原行洋が。左下、橘の
方には座間が。
そして、その座間の後ろに、ヒカルはひっそりと控えている。
普段なら動きやすい狩衣を着用ているヒカルも、この日ばかりは、そういう
わけには行かず、きっちりとした束帯姿――縹色した官職の位袍に、石帯を付け、
頭の冠には巻纓、オイカケ――武官の正装だ。
腰には太刀をはき、手には笏のかわりに弓を持つ。
ヒカルは、さすがにこの宴には座間は自分を伴わないと思っていたが、今朝、
侍女が持ってきた衣装に、そうではないことを知って驚いた。典礼通りに
身支度を整えて、その格好で座間邸の門のところへ供をするため赴いたとき、
すでに牛車の中にいた座間は
「ほう。昨晩のあで姿からは、想像もつかん凛々しさよ」
と、扇の影で笑った。
だが、それでも、高欄の内にならぶ貴族達の位の高さをしめす黒の位袍の間で、
ヒカルの姿はいやがおうでも目立つ。
ここは、本来ヒカル程度の身分の者が上れる場所ではない。
貴族の中でもほんの一握りの者しか上れない場所。
高欄の下なら、まだよかったのに、とヒカルは思う。
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紫宸殿から降りた場所にも参列しているのは、やはり黒の位袍のまとうことを
許された高位の貴族と華やかな十二単姿の女房ばかりだが、それでも、
その会場の端々には、警備のために弓を持って立つ、同じ検非違使や衛士の
姿が見える。
加賀や三谷の姿もあった。
ヒカルがなんとも場違いなこの場所に座るはめになったのは座間がそう命じた
からだ。
菅原でさえ、高欄の下にいるというのに、座間はヒカルを手元から離さなかった。
高欄の内のこの場所は会場の真正面にある上、他の場所より高くなっているせいで、
どうしたってヒカルの姿は、皆の目に入る。滅茶苦茶に居心地が悪い。
だが、それでもヒカルは、いつのまにか唯一人の人を、無意識に目で探していた。
その人は、藤原派の貴族の中に、なんともひっそりと座っていた。
着衣もいつもの白い狩衣ではない。文官の黒の礼装。
髪も、いつもはさらさらと長く後ろにたらし、腰のあたりでやっと結んでいるのに、
今日はもう少し根元の方、肩の後ろあたりでゆるく飾り結びにまとめている。
少しうつむきかげんに下を見ていた佐為が、ゆらりと顔を上げた。
目が合いそうになって、ヒカルはそっと目線を外した。
楽の音が流れ始めた。
貴族達は、それぞれが苦心して作成した、菊を題材にした和歌を代わる代わるに
読み上げ、帝にいいところを見せようとしている。いい歌が出れば、会場が
ざわめき盛り上がる。
だが、歌のことなどまったくわからないヒカルは上の空だ。
疲れのための眠気と戦うので精一杯だ。
ここに来る途中も立つのがやっとだった。
気をぬけばその場で腰がくだけて倒れてしまいそうだった。
まだ自分の奥に何かを食んでいるような気さえする。
どこか人目につかないところに行って休みたかった。
儀式はとどこおりなく進み、いよいよ饗応の宴に入る。
山海の珍味に加え果物や、珍しい菓子なども、女房達の手によって運びこまれ、
それへ次々と手が伸ばされる。
酒も、それぞれが手にした菊の花びらを浮かべた盃に、波々とそそがれ、会場は菊の
香りとともに、豊潤な酒の香りにも包まれる。
菊の宴は、長寿の宴。しかし、飲み食う楽しみもなくては、なんの為の長寿ぞよ、と。
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やがて、会場の中央に、舞楽府の徒達が進み出て、舞いを披露し始めた。
それが一通り終わると、帝が、そっと近従に耳打ちして、もう一度楽の音を奏で始めさせた。
帝が声を皆にかける。誰か、技に覚えのあるものは舞ってみよ、と。
貴族達の席がざわめき、我こそはという若い公達が、友に声を掛け、誘いあい、
宴場の中央に進みでる。
その若者達の舞いに、参列する貴族達は、時には感心し、時には即興であるがための
失敗に笑う。
その舞いも終わり、次の楽が始まった。
公達たちに、ねぎらいの言葉がかけられ、今度の曲を躍るのは誰かと、人々の目が、
きらびやかな衣装に身をつつむ娘達の方に向けられる。
その時、座間が口を開いた。
「これは、我が警護役に舞わせよう」
その一言にヒカルは眠気もふっとんで、庭の方を向いている座間の背中を見た。
会場がどよりと湧いて、貴族達が高欄の内にいる座間のほうに視線をよせる。
座間がヒカルの方を振り向いた。
「たかが、検非違使ごときが、この饗応の場に参列を許されているのだ。それぐらいの
礼はして、皆を喜ばせるのに、否ということはあるまいな」
勝手に連れてきておいて、とんでもない脅迫だ。
だいたいこの舞いは…。
ふつう、舞楽は左から歩を進める左舞いと、右から歩を進める右舞いが対として
演ぜられ、数ある楽曲の中でも、どの舞いにどれがつがいとして躍られるかは
大方決まっている。
今、4人の公達が奉じたのは、左舞いの「央宮楽」。
「央宮楽」のつがい舞いは「綾切」――4人の舞手による女舞いだ。
それを座間は、余興として男であるヒカルに、たった一人で舞わせようと
いうのだ。
(冗談じゃねぇ!)
これは面白いことになりそうだと貴族達がざわめいている。
雅な秋色の重ねの唐衣をまとった女房達が、口元を扇で隠しながら、ヒカルの方を
見て、なにやら楽しげに笑いあっている。
帝も止める様子がない。
その中で、ヒカルの方をみつめる佐為だけが、心配そうに顔を曇らせているのが
わかった。
断れるような空気ではなかった。
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(やってやろうじゃねぇか)
失敗して物笑いの種になるにしたって、恥をかくのは自分を指名した座間だ。
かまうことはない。
弓を置く。
ヒカルは重い体を持ち上げた。
下半身に鈍痛が走った。そのまま崩れ落ちそうになる体を必死で支える。
紫宸殿から中央への階段を降りる途中、女房の一人が、おかしそうに口元を
ほころばせながらヒカルの方に寄ってきて
「これを」
と、細い茎に5つ6つの小さな黄色い花のついた野菊の枝を差し出した。
舞い手は皆、頭に、曲やその儀式に合った花を飾るのが慣いだ。
ヒカルは、その可憐な花枝を受け取ると、無造作に冠に挿した。
会場の中央に進み出る。
一旦鳴り止んでいた楽の音が再開された。
舞いなんて舞ったことはほとんどないが、佐為にくっついて貴族の宴会に
顔を出したり、検非違使として儀式の警護にあたったりの機会に、何度も
見てはいる。舞いの振りなんてみんな似たり寄ったりだ。きっとなんとか
なるだろう。失敗したって知るもんか。
楽の流れに合わせてヒカルはゆっくり手をあげる。
昨日の夜の恥行のせいで体の力が、どこもかしこも萎えている。その腕を
あげたまま支えるのだって一苦労だ。
始めは高麗笛の独奏。初太鼓が鳴り、篳篥の節が入る。
とにかく、倒れないように舞おう。
今のヒカルにはそれが精一杯だった。
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