平安幻想異聞録-異聞- 135 - 139
(135)
やがて、会場の中央に、舞楽府の徒達が進み出て、舞いを披露し始めた。
それが一通り終わると、帝が、そっと近従に耳打ちして、もう一度楽の音を奏で始めさせた。
帝が声を皆にかける。誰か、技に覚えのあるものは舞ってみよ、と。
貴族達の席がざわめき、我こそはという若い公達が、友に声を掛け、誘いあい、
宴場の中央に進みでる。
その若者達の舞いに、参列する貴族達は、時には感心し、時には即興であるがための
失敗に笑う。
その舞いも終わり、次の楽が始まった。
公達たちに、ねぎらいの言葉がかけられ、今度の曲を躍るのは誰かと、人々の目が、
きらびやかな衣装に身をつつむ娘達の方に向けられる。
その時、座間が口を開いた。
「これは、我が警護役に舞わせよう」
その一言にヒカルは眠気もふっとんで、庭の方を向いている座間の背中を見た。
会場がどよりと湧いて、貴族達が高欄の内にいる座間のほうに視線をよせる。
座間がヒカルの方を振り向いた。
「たかが、検非違使ごときが、この饗応の場に参列を許されているのだ。それぐらいの
礼はして、皆を喜ばせるのに、否ということはあるまいな」
勝手に連れてきておいて、とんでもない脅迫だ。
だいたいこの舞いは…。
ふつう、舞楽は左から歩を進める左舞いと、右から歩を進める右舞いが対として
演ぜられ、数ある楽曲の中でも、どの舞いにどれがつがいとして躍られるかは
大方決まっている。
今、4人の公達が奉じたのは、左舞いの「央宮楽」。
「央宮楽」のつがい舞いは「綾切」――4人の舞手による女舞いだ。
それを座間は、余興として男であるヒカルに、たった一人で舞わせようと
いうのだ。
(冗談じゃねぇ!)
これは面白いことになりそうだと貴族達がざわめいている。
雅な秋色の重ねの唐衣をまとった女房達が、口元を扇で隠しながら、ヒカルの方を
見て、なにやら楽しげに笑いあっている。
帝も止める様子がない。
その中で、ヒカルの方をみつめる佐為だけが、心配そうに顔を曇らせているのが
わかった。
断れるような空気ではなかった。
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(やってやろうじゃねぇか)
失敗して物笑いの種になるにしたって、恥をかくのは自分を指名した座間だ。
かまうことはない。
弓を置く。
ヒカルは重い体を持ち上げた。
下半身に鈍痛が走った。そのまま崩れ落ちそうになる体を必死で支える。
紫宸殿から中央への階段を降りる途中、女房の一人が、おかしそうに口元を
ほころばせながらヒカルの方に寄ってきて
「これを」
と、細い茎に5つ6つの小さな黄色い花のついた野菊の枝を差し出した。
舞い手は皆、頭に、曲やその儀式に合った花を飾るのが慣いだ。
ヒカルは、その可憐な花枝を受け取ると、無造作に冠に挿した。
会場の中央に進み出る。
一旦鳴り止んでいた楽の音が再開された。
舞いなんて舞ったことはほとんどないが、佐為にくっついて貴族の宴会に
顔を出したり、検非違使として儀式の警護にあたったりの機会に、何度も
見てはいる。舞いの振りなんてみんな似たり寄ったりだ。きっとなんとか
なるだろう。失敗したって知るもんか。
楽の流れに合わせてヒカルはゆっくり手をあげる。
昨日の夜の恥行のせいで体の力が、どこもかしこも萎えている。その腕を
あげたまま支えるのだって一苦労だ。
始めは高麗笛の独奏。初太鼓が鳴り、篳篥の節が入る。
とにかく、倒れないように舞おう。
今のヒカルにはそれが精一杯だった。
(137)
元服を終えたとはいえ、まだどこかあどけない少年武官の一人舞いに、
最初は面白がり、はやしたてていた貴族達だったが、その騒ぎは徐々におさまり、
いつの間にか会場は水を打ったように静まり返ってしまった。
公卿のひとりが、ゴクリとつばを飲み込む音が聞こえるほどに。
この検非違使の少年がかもしだす、例えようもない艶はいったいなんなのか。
縹色――薄藍に一滴、緑を足らした色の位袍の、袖崎に覗く幼い指先。揺れる
金茶の前髪近く、左耳の上辺りに刺された黄色い小菊がよく似合っている。
「婀娜」という言葉がある。
今のヒカルの様がまさにそれだった。
ヒカルがともすれば力が抜けそうになる手足をささえる、その動きの緊張感が、
不思議な色気を生み出していた。
痛む腰と重い体を、崩れないように慎重に立たせるその様子が、かえって
匂い立つような色香を感じさせる。
疲れに半分閉じられたまぶたは、いっそ、けだるげで、見るものを迷わせる力があった。
「あの、馬鹿…」
加賀は、会場の隅に弓を携えて立ちながら、おもわず舌打ちしていた。
近衛ヒカルは、今の自分が、端からどう見えているかなんて、まったく気付いて
いないに違いない。
2日ほど前に内裏で会ったとき、ほんの一時だけ、ヒカルが感じさせた、
あの奇妙な色気を思い出していた。
それが、今日は無意識に全開だ。
座間に何をされているのか、前よりやせて細くなった首が扇情的だ。わずかに
臥せられた瞳は物憂げで、その舞いが醸し出す雰囲気は、なまめかしくさえあった。
これでは、座間でなくても惑わされる。
「何がどうなっても、知らねぇぞ、おい」
(138)
楽が奏し終わって、ヒカルが中央より下がる。
空気が止まってしまったようになっていた会場に、活気が戻る。
元いた座間の後ろの場所まで戻るには、参列する貴族達の前を
横切らなければならなかった。
幾人かの公達は、何か気まずそうに、歩くヒカルから目をそらした。
(ちぇっ、悪かったな下手くそで!)
自分で望んで舞ったわけではないが、せっかくの宴を白けさせてしまったの
ではないだろうか?
自分でわかってるだけでも5箇所は間違えてる。気付かないで振りを違えてる
所なんてきっと数えきれないだろう。
菅原の前も通った。その菅原にとなりの公卿が何か耳打ちしている。
(勝手に物笑いの種にしてろよ!)
他にも、幾曲か、有志によって舞いが舞われ、宴も終わりに近づき、帝が、
上手い歌を作った者、見事な菊を持ってきた者に、褒美として禄を与えはじめる。
その録となる錦の布を肩にかけ、誇らしげに立つ若い公達を見ながら、ヒカルは
そっと座間の後ろから退出した。
検非違使は現代で言う警官、裁判官の役を担う。その、建前でも絶対公平の
立場にある検非違使が、誰かの元について公の儀式に参加するなど、ほんの
少しの例外をのぞいては禁じられている(これは検非違使庁に入ったばかりの頃は、
耳にタコができるほど聞かされた)。また、その少しの例外においても、必ず
給録の前には席を外さなくてはならないというのは、儀式書にきっちりと
明文化されたされた決まりごとだ。いくら座間でも、それを帝の前で堂々と
破ることはすまい。
そっと席を外すヒカルに座間は気付いたようだったが、呼び止めはしなかった。
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ヒカルは弓を手にしたまま足早に、紫宸殿から渡り廊下を通って
宜陽殿に抜ける。
ゆっくり歩くとふらふらするから、これぐらいてきぱきと動いたほうがいい。
公式な儀式はこれで一通り終わりだが、帝が退出した後も、貴族達は
饗応を続ける。
いや、むしろこれからが本番かもしれない。帝が下がれば、あとは無礼講。
夜明けまで飲めや歌えの乱痴気騒ぎだ。
座間もそれに朝までつきあうはずだ。
その分、今夜は自分が座間の相手をせずにすむのが嬉しい。
だが、警護役である以上、座間の帰りを守るために、どこかで宴が終わるのを
待たなければならないのだ。
前に加賀に教えてもらった書庫に行こうかと考えたその時、うしろからヒカルを
呼び止める声があった。
懐しい声だった。
懐しすぎて怖くて振り返れなかった。
後ろから足音が近づいてきて、ヒカルを背中からそっと抱きしめた。
「佐為……」
ヒカルはその名を、大事そうに口にした。
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