平安幻想異聞録-異聞- 136 - 140
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(やってやろうじゃねぇか)
失敗して物笑いの種になるにしたって、恥をかくのは自分を指名した座間だ。
かまうことはない。
弓を置く。
ヒカルは重い体を持ち上げた。
下半身に鈍痛が走った。そのまま崩れ落ちそうになる体を必死で支える。
紫宸殿から中央への階段を降りる途中、女房の一人が、おかしそうに口元を
ほころばせながらヒカルの方に寄ってきて
「これを」
と、細い茎に5つ6つの小さな黄色い花のついた野菊の枝を差し出した。
舞い手は皆、頭に、曲やその儀式に合った花を飾るのが慣いだ。
ヒカルは、その可憐な花枝を受け取ると、無造作に冠に挿した。
会場の中央に進み出る。
一旦鳴り止んでいた楽の音が再開された。
舞いなんて舞ったことはほとんどないが、佐為にくっついて貴族の宴会に
顔を出したり、検非違使として儀式の警護にあたったりの機会に、何度も
見てはいる。舞いの振りなんてみんな似たり寄ったりだ。きっとなんとか
なるだろう。失敗したって知るもんか。
楽の流れに合わせてヒカルはゆっくり手をあげる。
昨日の夜の恥行のせいで体の力が、どこもかしこも萎えている。その腕を
あげたまま支えるのだって一苦労だ。
始めは高麗笛の独奏。初太鼓が鳴り、篳篥の節が入る。
とにかく、倒れないように舞おう。
今のヒカルにはそれが精一杯だった。
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元服を終えたとはいえ、まだどこかあどけない少年武官の一人舞いに、
最初は面白がり、はやしたてていた貴族達だったが、その騒ぎは徐々におさまり、
いつの間にか会場は水を打ったように静まり返ってしまった。
公卿のひとりが、ゴクリとつばを飲み込む音が聞こえるほどに。
この検非違使の少年がかもしだす、例えようもない艶はいったいなんなのか。
縹色――薄藍に一滴、緑を足らした色の位袍の、袖崎に覗く幼い指先。揺れる
金茶の前髪近く、左耳の上辺りに刺された黄色い小菊がよく似合っている。
「婀娜」という言葉がある。
今のヒカルの様がまさにそれだった。
ヒカルがともすれば力が抜けそうになる手足をささえる、その動きの緊張感が、
不思議な色気を生み出していた。
痛む腰と重い体を、崩れないように慎重に立たせるその様子が、かえって
匂い立つような色香を感じさせる。
疲れに半分閉じられたまぶたは、いっそ、けだるげで、見るものを迷わせる力があった。
「あの、馬鹿…」
加賀は、会場の隅に弓を携えて立ちながら、おもわず舌打ちしていた。
近衛ヒカルは、今の自分が、端からどう見えているかなんて、まったく気付いて
いないに違いない。
2日ほど前に内裏で会ったとき、ほんの一時だけ、ヒカルが感じさせた、
あの奇妙な色気を思い出していた。
それが、今日は無意識に全開だ。
座間に何をされているのか、前よりやせて細くなった首が扇情的だ。わずかに
臥せられた瞳は物憂げで、その舞いが醸し出す雰囲気は、なまめかしくさえあった。
これでは、座間でなくても惑わされる。
「何がどうなっても、知らねぇぞ、おい」
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楽が奏し終わって、ヒカルが中央より下がる。
空気が止まってしまったようになっていた会場に、活気が戻る。
元いた座間の後ろの場所まで戻るには、参列する貴族達の前を
横切らなければならなかった。
幾人かの公達は、何か気まずそうに、歩くヒカルから目をそらした。
(ちぇっ、悪かったな下手くそで!)
自分で望んで舞ったわけではないが、せっかくの宴を白けさせてしまったの
ではないだろうか?
自分でわかってるだけでも5箇所は間違えてる。気付かないで振りを違えてる
所なんてきっと数えきれないだろう。
菅原の前も通った。その菅原にとなりの公卿が何か耳打ちしている。
(勝手に物笑いの種にしてろよ!)
他にも、幾曲か、有志によって舞いが舞われ、宴も終わりに近づき、帝が、
上手い歌を作った者、見事な菊を持ってきた者に、褒美として禄を与えはじめる。
その録となる錦の布を肩にかけ、誇らしげに立つ若い公達を見ながら、ヒカルは
そっと座間の後ろから退出した。
検非違使は現代で言う警官、裁判官の役を担う。その、建前でも絶対公平の
立場にある検非違使が、誰かの元について公の儀式に参加するなど、ほんの
少しの例外をのぞいては禁じられている(これは検非違使庁に入ったばかりの頃は、
耳にタコができるほど聞かされた)。また、その少しの例外においても、必ず
給録の前には席を外さなくてはならないというのは、儀式書にきっちりと
明文化されたされた決まりごとだ。いくら座間でも、それを帝の前で堂々と
破ることはすまい。
そっと席を外すヒカルに座間は気付いたようだったが、呼び止めはしなかった。
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ヒカルは弓を手にしたまま足早に、紫宸殿から渡り廊下を通って
宜陽殿に抜ける。
ゆっくり歩くとふらふらするから、これぐらいてきぱきと動いたほうがいい。
公式な儀式はこれで一通り終わりだが、帝が退出した後も、貴族達は
饗応を続ける。
いや、むしろこれからが本番かもしれない。帝が下がれば、あとは無礼講。
夜明けまで飲めや歌えの乱痴気騒ぎだ。
座間もそれに朝までつきあうはずだ。
その分、今夜は自分が座間の相手をせずにすむのが嬉しい。
だが、警護役である以上、座間の帰りを守るために、どこかで宴が終わるのを
待たなければならないのだ。
前に加賀に教えてもらった書庫に行こうかと考えたその時、うしろからヒカルを
呼び止める声があった。
懐しい声だった。
懐しすぎて怖くて振り返れなかった。
後ろから足音が近づいてきて、ヒカルを背中からそっと抱きしめた。
「佐為……」
ヒカルはその名を、大事そうに口にした。
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ふたりとも、しばらくその場にそのまま、じっと立ち尽くしていた。
ヒカルは目を閉じて、背中の佐為の気配に集中する。
背中を佐為に預けたまま。顔を見ようとは思わなかった。
「久しぶりです、ヒカル」
いつもの佐為の声。声と一緒に吐息がヒカルの首筋にかかった。
「なんでって、聞かないのか?」
ヒカルが、少しだけまぶたを開けて静かに言った。
「わかってますから」
「………」
「私達のために、そうしてくれたのでしょう?」
背中から回されている佐為の手。
佐為の手は、細いくせに骨格はちゃんとしていて大人っぽい。
「賀茂は、無事?」
「えぇ。あの晩、腕に負った怪我もだいぶ癒えました」
「そうか。よかった」
「ヒカルこそ、この傷。治ってきているようで何よりです」
佐為の手が、静かに動いて弓を持ったままのヒカルの左手に触れた。その手首には、
数日前にヒカル自身が噛みついたあとが、かさぶたになって残っていた。
「痩せたのではないですか? ちゃんと食べていますか?」
同じようなことを加賀にも言われた。自分はそんなに痩せただろうか?
「座間様のところで、何か辛い目にあっているのではありませんか? 不自由は
していませんか?」
言葉を重ねて、佐為が訊く。今のヒカルには、その佐為の声音だけで気持ちがいい。
「うん…平気。大丈夫だよ」
どうにもならないことで心配をかけたくなかったので、ヒカルは平静を装った。
そして、幾分か目線をうつむけたその先。いつもなら、白鷺の羽のように白くて
柔らかな佐為の指先に、細かな傷が無数に付き、爪も割れているものがある事に
気がつく。ところどころマメが破れたように皮がむけてさえいる。
「おまえこそ、これ、どうしたんだよ」
「秘密です」
「え?」
耳元でささやく穏やかな声。
「ヒカルが、私に何か隠しているようだから、私も秘密ですよ。おあいこです」
「なんだよ、それ」
佐為の笑った気配がした。ヒカルもなんとなく和らいだ気分になって、少し笑った。
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