日記 136 - 140


(136)
 眠っている母親を起こさないようにそっと家を出た。
「ごめん…すぐに帰るから…」
ヒカルは、心の中で何度も謝った。
 文具店で、ごくありふれた便せんと封筒を購入した。その帰り道ふと思い立って、いつか
リンドウを買った花屋の方へ足を向けた。鮮やかな花々が妍をきそうように店内の至るところで
咲き乱れていた。そんな花達から、一線を引いたように静かにその花はあった。落ち着いた
深い青の花はヒカルの目を釘付けにした。暫くそこから離れることが出来なかった。
 店の奥にいた店主がヒカルに気づいて、「おや」という顔をした。ヒカルは慌てて逃げた。
 早足で、歩いていく。曲がり道に入り、花屋が見えなくなると歩調をゆるめた。
「バカみてえ。別に逃げる必要ないじゃん…」
だけど、ヒカルは、あの花をなくしてしまった。花のことを訊かれても、何も答えられない。
せっかく、大事にしようと思っていたのに…。リンドウにも花屋の店主にも申し訳ない
気がした。
「……帰ろ…お母さんが起きちゃうし…」
 ヒカルだってまだリンドウを持っている。たった二つだけ。日記帳としおり。あれだけは
まだヒカルのものだ。


(137)
 静かに玄関の扉を開け、靴を脱いだ。そーっと台所を覗いてみた。母はまだ眠っている。
よほど疲れているのだろう。ホッと息を吐いた。
 足音を忍ばせて、自分の部屋へ戻った。早速、便せんを取りだした。
「なんて書こう…」
ヒカルは、ペンを走らせた。だが、上手い言葉が見つからず、ヒカルは最初の一枚を
破いて捨てた。それから、何度も書いては捨て、捨てては書きを繰り返した。気がつけば、
買ったばかりの便せんは一枚も残っていなかった。
 どうしようかと悩んだあげく、ヒカルは日記帳の最後のページを慎重に切り取った。
もう、失敗は出来ない。考えて、考えて、考え抜いて書いた言葉はたったの一言だけ。
出来るだけ奇麗に住所と宛名を封筒に書いた。差出人の名前は書かなかった。その中に
丁寧に折り畳んだ手紙をいれる。後は、切手を貼って出すだけだが……………。
 ヒカルはそれを日記帳の間に挟んだ。


(138)
 部屋のドアをノックされ、和谷は慌てて立ち上がった。
―――――進藤!?
勢い良く開けたドアの向こうにいた伊角は、驚いた顔をしている。手に大きな袋を提げていた。
「伊角さんか………」
ヒカルが来るわけがないのだ。あんなことをした自分の元にやってくるわけがない。
 あの時のことを思い出すと、後悔と陶酔が交互に襲ってくる。ヒカルの肌は、どこも
かしこも滑らかで気持ちがよかった。ヒカルの腰を押さえて、射精した瞬間を思い出すと
身体が奮えた。だが、その一方で行為が終わった後のヒカルの魂の抜けたような表情を
思い出す。傷つき、怯え、放心状態のまま和谷の元を去った。
 和谷の暗い表情を気遣うように伊角が声をかけた。
「調子が悪いのか?最近、棋院でも会わないから心配で…」
和谷は首を振った。「なんでもねえよ……」
「本当か?顔色よくないぞ。進藤も病気だって言うし…お前まで…」
「…!進藤が!?」
和谷は、伊角の腕を掴み激しく揺さぶった。
「進藤が病気?なんで?いつから?」
ヒカルが病気だとしたら、それは自分のせいだ。
「さあ…?オレは直接会っていないけど…すごく痩せてたって…仕事も休んでいるみたいだし……」
伊角が一度見舞いに行こうと誘った。和谷は曖昧に頷いた。ヒカルは自分に会いたくないに
決まっている。それに、どんな顔をすればいいのか……。
 和谷の沈黙をどう受け取ったのか、伊角が励ます。
「お前は進藤の一番の友達だもんな…心配するのが当たり前だけど…元気出せよ…」
一番の友達―――――――辛い言葉だ。今はもう友達ですらない。


(139)
伊角は、持っていた袋の中身を取りだした。レトルトのお粥だの、風邪薬、氷枕などが
順に出てくる。家からわざわざ持ってきてくれたらしい。
「伊角さん……」
伊角は照れくさそうに、頭を掻いた。
「いや、てっきり病気じゃないかと思いこんでて…お前、電話にも出ないし…」
 和谷は畳の上に顔を伏せた。涙が溢れてくる。嗚咽が漏れた。
「わ…和谷……?」
伊角は、おろおろと和谷の背中をさすった。
「どうしたんだ?どこか痛いのか?やっぱり、調子が悪いんじゃないのか?」
「ち…ちが…ちがう…オレ…」
伊角に全部話してしまおうか?でも、知ったら、きっと伊角は軽蔑する。伊角は自分が
ヒカルを弟みたいに扱っていたのを知っている。伊角だって、同じようにヒカルを可愛がっていた。
 和谷は泣き続けた。伊角は宥めるように背中を撫でてくれている。胸の奥に詰まっていたものが
一気に流れ出した。
 ヒカルが可愛かった。大切だった。他のヤツに獲られたくなかった。だけど、結局失ってしまった。
最低のヤツだ!本当は可愛いからとか、好きだからとかではなく、ただ単に、抱きたかっただけじゃないのか!?
アキラがヒカルを大切にしているのを知ったから、獲ってしまいたかっただけなんだろう?
心の中で、別の自分がそう責める。
「ちがう…!ちがう!ちがう!」
本当に好きだった。大事だったから…どんな手を使っても自分のものにしたかった。
それが間違っているのは最初からわかっていた。それでもそうせずにはいられなかった。
あの笑顔を自分だけのものにしたかった……。それだけだった。


(140)
 伊角は和谷を好きなだけ泣かせてくれた。
「ご…ごめん…伊角さん…」
「いいさ…早速、コレが役に立つな…」
伊角が氷枕にタオルを巻いて、和谷の目元に押し当てた。
「ちょっと、大きいな…ま、ガマンしてくれよ?」
早とちりしたから、これだけでも役に立たないと格好がつかない――――――
そう言ってなんでもないように伊角は笑った。
「薬とレトルトは流しの下にでも入れておくか…」
残りの荷物を持って、立ち上がった。
「…へえ…リンドウか…」
流し台の上に置かれた鉢植えに、目を細める。殺風景な部屋の中で、そこだけ何故か
空気が違った。決して派手な色調ではない。深く落ち着いた清楚な花だ。だが、自然と
目が奪われてしまう。
「買ったのか?」
振り返って、和谷に問うてきた。
 和谷は答えなかった。伊角はそんな和谷を黙って見ていたが、視線をリンドウの方へもどすと
「……もうすぐ夏も終わりだな…」
と独り言のように呟いた。



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