平安幻想異聞録-異聞- 139 - 140
(139)
ヒカルは弓を手にしたまま足早に、紫宸殿から渡り廊下を通って
宜陽殿に抜ける。
ゆっくり歩くとふらふらするから、これぐらいてきぱきと動いたほうがいい。
公式な儀式はこれで一通り終わりだが、帝が退出した後も、貴族達は
饗応を続ける。
いや、むしろこれからが本番かもしれない。帝が下がれば、あとは無礼講。
夜明けまで飲めや歌えの乱痴気騒ぎだ。
座間もそれに朝までつきあうはずだ。
その分、今夜は自分が座間の相手をせずにすむのが嬉しい。
だが、警護役である以上、座間の帰りを守るために、どこかで宴が終わるのを
待たなければならないのだ。
前に加賀に教えてもらった書庫に行こうかと考えたその時、うしろからヒカルを
呼び止める声があった。
懐しい声だった。
懐しすぎて怖くて振り返れなかった。
後ろから足音が近づいてきて、ヒカルを背中からそっと抱きしめた。
「佐為……」
ヒカルはその名を、大事そうに口にした。
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ふたりとも、しばらくその場にそのまま、じっと立ち尽くしていた。
ヒカルは目を閉じて、背中の佐為の気配に集中する。
背中を佐為に預けたまま。顔を見ようとは思わなかった。
「久しぶりです、ヒカル」
いつもの佐為の声。声と一緒に吐息がヒカルの首筋にかかった。
「なんでって、聞かないのか?」
ヒカルが、少しだけまぶたを開けて静かに言った。
「わかってますから」
「………」
「私達のために、そうしてくれたのでしょう?」
背中から回されている佐為の手。
佐為の手は、細いくせに骨格はちゃんとしていて大人っぽい。
「賀茂は、無事?」
「えぇ。あの晩、腕に負った怪我もだいぶ癒えました」
「そうか。よかった」
「ヒカルこそ、この傷。治ってきているようで何よりです」
佐為の手が、静かに動いて弓を持ったままのヒカルの左手に触れた。その手首には、
数日前にヒカル自身が噛みついたあとが、かさぶたになって残っていた。
「痩せたのではないですか? ちゃんと食べていますか?」
同じようなことを加賀にも言われた。自分はそんなに痩せただろうか?
「座間様のところで、何か辛い目にあっているのではありませんか? 不自由は
していませんか?」
言葉を重ねて、佐為が訊く。今のヒカルには、その佐為の声音だけで気持ちがいい。
「うん…平気。大丈夫だよ」
どうにもならないことで心配をかけたくなかったので、ヒカルは平静を装った。
そして、幾分か目線をうつむけたその先。いつもなら、白鷺の羽のように白くて
柔らかな佐為の指先に、細かな傷が無数に付き、爪も割れているものがある事に
気がつく。ところどころマメが破れたように皮がむけてさえいる。
「おまえこそ、これ、どうしたんだよ」
「秘密です」
「え?」
耳元でささやく穏やかな声。
「ヒカルが、私に何か隠しているようだから、私も秘密ですよ。おあいこです」
「なんだよ、それ」
佐為の笑った気配がした。ヒカルもなんとなく和らいだ気分になって、少し笑った。
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