指話 14
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あの人の車の助手席に乗る事は何度かあった。自分の家と棋院会館を結ぶ道のりと
それに準ずる程度の距離だけ、門下生として過ぎない程度に、あの人は足代わりを
よく勤めてくれた。それ以外のルートを踏む事はなかった。
ましてやあの人の自宅はそのルート上に存在する必要はなかった。
それでも自分は、あの人の部屋の場所を知っている。
会う訳ではないのに立ち寄ったことがある。
あの人は地下駐車場から車で出入りしている。マンションの入り口付近に立っても
偶然会える可能性など皆無に等しい。それでも何度か来た事があった。
近くに用事があったから、必要な本を探していたから…。
偶然会えた時のために用意した言い訳は使われる事は一度もなかった。
一度だけ、インターホンを押した事があった。
父について地方に行った時、お土産を買った。それを手渡そうとした。
だが、その時はその部屋の主人は留守だった。お土産は、手渡せなかった。
ガラス細工が施された灰皿か何かだったと思う。もらってもたいして嬉しくない代物だ。
今でも自分の机の抽斗の中のどこかにある。渡せなくて良かったと思う。
でも今日は、もしも偶然会えたなら素直に話してしまいそうだった。
―会いたかった。…と。
神様とは、そういう時に限って望みをすんなり叶えてしまうものらしい。
インターホンを押すと、暫く間があって、いくぶん低く掠れたあの人の声が返って来た。
こちらの名を告げると、さらに間があいた。声ではなくドアチェーンを外す音を
聞けるまでは、悪戯をして玄関から閉め出された子供のように心細かった。
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