裏階段 三谷編 14 - 16


(14)
彼がしている事は自分と同じだとすぐに分かった。進藤とその周辺の者に気付かれない
ようにして、進藤を見ている。
彼の視線を追うようにして、もう一度進藤を見る。
自分には触れる事が許されない存在。汚したくない存在。自分が棲む世界とは
違う世界に住む存在。他にはどんな言葉が当てはまるだろう。
肉体的な領海は何度か犯しながら気持ちの上では進藤を手に入れる事は叶わなかった。
そんな相手が他にも存在する。
進藤の前は、その相手を、何度か同じようにそうして見つめていた。
手に入らないと分かっていながらショーウインドウに張り付く子供のように、
透明なガラスの冷たさを手の平や頬に感じなければ自分の心を納得出来なかった。

「はあっ…あ、…あ…」
様子を見ながらゆっくりと腰を動かした。そういう行為を受けるように出来ている
器官ではない。そんな当たり前の事が分かっていない人種も中にはいるようだが。
言わなくても彼は自ら角度を微調整して来た。アキラもそういう所があった。
アキラは、自分が誰かの代用として抱かれている事を察していた。

進藤だけは、何度体を重ねてもそういう真似が出来なかった。大抵痛みの余りに
途中でひどく不機嫌になり、sexの後しばらくは口を聞いてくれなくなる。
それでも2〜3日もするとケロッと何もかも忘れたように明るく話し掛けて来るのだった。


(15)
痛みに身をよじる淡い小麦色の進藤の肌が、青白く変化して現実に体の下にいる彼に
成り変わる。
自分は、たいして愛情を持たなくても相手を抱く事が出来る人間だった。と同時に、
愛情の欠片も持たない相手に抱かれる事も出来た。

伯父に体を弄られながら碁盤を見つめる事も多かった。胡座をかいた伯父に手招きを
される度、何かに失望しながら、何かを憎みながらもそんな心をどこかに追いやって
服を脱ぎ、伯父の肉体の一部を体に埋めて伯父の出す詰碁を解いた。
解けるまでは終わらなかった。詰め後は急速に難解になっていった。
囲碁を習う部屋や、自分が使う布団の不自然な汚れが伯父の家人に気付かれない
はずがなかった。
独立して家を出た子供達の代わりに、おかみさんは伯父が連れて来た自分の事を
可愛がってくれたが、伯父との肉体的な関係が始まってからはその事が精神的な
負担になっていった。
ある時、学校から帰るとおかみさんが庭に立っていた。来春から通う中学校について
相談しなければならなかった。「ただいま」と声を出そうとした瞬間におかみさんから
手に持っていたバケツの水を顔に叩き付けられた。
「…泥棒猫!!」
忌々しそうに家の中に入って音をたてて戸を閉じるおかみさんの後ろ姿が気の毒で、
ただ自分はため息をついてその場に立ち尽くすしかなかった。
冷たい風の中で学校の指定のコートから水滴が落ちるのを漠然と見つめていた。


(16)
知覚が戻るのに多少は時間がかかったかもしれない。
水を吸った衣服の冷たさと重さを感じ始めたと同時に傍らに人がいる事に気がついた。
正確には自分に向かって真直に歩を進めて来る者の存在に、だった。
「コートを脱ぎなさい。」
伯母の金切り声の後で、その声はひどく穏やかで人間的なものに聞こえた。
だがその声の主の顔をなかなか視線を向けて見る事が出来なかった。
もしその時、伯父や、その周囲に居た伯父と同じ人種のような目がそこにあったらと
思ったからだった。その頃伯父は、オレを指導碁に同行させて相手に“紹介”する事が
あった。伯父が彼等から借金を重ねているのは容易に推測出来た。

躊躇している間に声の主の相手がこちらに手を伸ばし、かけ鞄を肩から外した。
それだけの動きで、強引でもなく強制でもないいたわりが伝わって来た。
相手は鞄を受け取りながら片手で自分のコートを脱ぐと、濡れたコートを脱いだ
こちらの肩にかけてくれた。年令の割に長身であったが、大人の背丈の上質そうな
コートの下端は濡れた埃まみれの地面に触れた。
意を決して顔をあげるとその相手は、騒ぎに顔を覗かせていた隣家の主婦に声を
かけるため後ろ姿を見せていた。
「すみませんが、タオルを貸していただけませんか。」
丁寧な物腰に主婦が一瞬顔を赤らめて頷いたように見えた。
そうして受け取ったタオルで水滴が落ちる毛先を包んでくれたその人の顔には
見覚えがあった。数回伯父と対局をしたことがあるプロ棋士の一人だった。



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