平安幻想異聞録-異聞- 141 - 142
(141)
「そうそう、先ほどの舞い、途中三度も左から踏みだしたでしょう? 右舞いの
『綾切』は右の足から、ですよ」
「しょうがないじゃん。初めてだったんだよ、あんな…」
「でも。綺麗でした」
宜陽殿の建物を挟んだ向こう側に面する紫宸殿の庭から、遠く楽の音が聞こえ
始めた。饗宴が再開されたのだ。
いささか強い力で、抱き寄せられた。佐為の胸に包み込まれる。
「ヒカル」
「何?」
「待っていて下さい。もう少しだけ。必ず助けてあげますから。必ず家に帰れるように
してあげますから」
「佐為」
ヒカルは、そのまま振り返って佐為の胸に縋り付きたかった。でも、それは出来ない、
今はまだ。―まだ。
「俺、もう行かないと。おまえもまずいんじゃないの? いろいろさ」
今や有力貴族のひとりに数えられる佐為は、宴の場では、様々な束縛がある。
他の貴族たちの相手然り。藤原派閥の筆頭である、行洋のご機嫌伺い然り。
きっとここにも、宴の席を黙って抜け出して来たはずだ。
「そうですね、私も宴の席に戻らなくては」」
ヒカルの体に回されていた手がほどかれた。寒い、とヒカルは思った。
ほどいたその手が、ヒカルの冠に飾られたままの、黄色い小菊の花へとやられた。
「この花を貰えますか?」
静かにそれを抜き取る。
「約束しましょう、ヒカル。この花がしおれるまでに、必ずあなたを元居た場所に
帰れるようにすると。だから、それまでどうか…」
花飾りを失った耳の後ろに、やんわりと佐為の唇が触れて、離れた。
背中が涼しくなって、後ろにいた人が立ち去る気配。
佐為は振り向かなかった。ヒカルも振り向かなかった。
ヒカルの肩に、ただほんのりと佐為の腕の感触が残った。
顔も見ることさえ叶わなかったけれど、ヒカルにはそれで十分だった。
(142)
宴が明けて、九月の十日。
この頃からいよいよ秋も深まり、木々も深く色付き始める。
内裏は、宴の後のどこか緩んだ空気に包まれ、誰も彼も動きが重い。
ヒカルは、宜陽殿の書庫の入り口あたりの柱に身をもたれさせかけて、
秋の空を眺めていた。
夕べはさすがに座間達も、ヒカルに床の相手をさせずに寝てしまったので、
今日はヒカルもそんなには眠くない。
だけど、人の気配の少ないこの場所にいると気が落ち着いた。
1回、加賀が前を偶然通りかかったと言って顔を出したが、様子を見て取って
すぐに立ち去り、ヒカルをひとりにしておいてくれた。
その加賀の話によると、今日も佐為は参内を休んでいるらしい。
肩と背に残る佐為の感触を追いながら、ヒカルは
二人が最後にまともに顔を合わせた日の事を思い出す。
賀茂邸に泊まることが決まった、あの夕方。
木戸を閉めようとした賀茂アキラを制して、思わず飛びだしていた自分。
雲の垂れ込めた空。昼下がりの薄明るい道をひとりで帰路につく佐為の後ろ姿を見て、
何か、胸の奥から熱いものが込み上げてきて、追いかけずにはいられなかった。
そこが天下の往来だということも頭から飛んでいた。
艶やかな黒髪を風に揺らして振り返るその人に、気がついたら唇を重ねていた。
ただ、触れ合うだけの口付けだったけれど。
ヒカルは無意識に、自分の唇に指でなぞっていた。
あれから幾日もたっていない筈なのに、それは昨日のように思い起こされながら、
ひどく遠い。
あの時も、佐為を離したくなかったが、昨日、内裏で会ったとき、もし自制できずに、
振り返って佐為に抱きついていたら、その離れがたさはあの時の比ではなかっただろう。
清涼殿の方がざわめいた。
議事が終わったらしい気配にヒカルは立ち上がって、控えの間に向かう。
座間と菅原は、幾人かの公卿とひそひそと言葉を交わしながら、宜陽殿へと渡ってきた。
公卿達が、廊下に出て待っていたヒカルをじろじろと見た。
どうせ、ろくでもない悪巧みでもしていたに違いない。
聞きたくもないので、ヒカルは意識の中で耳を塞ぎ、帰途のため、牛車にむかった。
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