日記 142 - 144
(142)
もう一度、ヒカルに電話をかけた。今度は自宅ではなく、携帯に。何回かのコールの後、
アナウンスが流れる。アキラは溜息を吐いた。これを聞くのは何度目だろうか。空しいと思いながらも、
「ボクです。連絡をください。」
と、前回と同じ伝言を入れる。どうして、ヒカルは電話をくれないのか。何故、自分を
避けるのか。まったく理由がわからない。悲しいよりも腹が立つ。
頭を冷やそうと、窓を少し開けた。夜風が、窓辺に吊した風鈴を揺らす。硬い透明な
音が耳に心地いい。楽しそうに、それを揺らして見せたヒカルを思い出す。大きな瞳を
キラキラさせて、アキラに贈ってくれた。
「何が、あったんだ…進藤…」
風鈴をつつく。あんなに痩せてしまうほど…。自分のいない間に何があったのか…。
ヒカルの痩せた背中を撫でたとき、肩胛骨が掌に刺さった。その感触を思い出した。
どうしても知りたい。ヒカルの悩みを解決できるなどと、思い上がってはいないけど、
少しでも力になりたい。ヒカルの笑顔が見たいのだ。
「緒方さんに聞けばわかるかな……」
気は進まないが、それ以外に方法を思いつかなかった。
(143)
またか……と、思った。親とはぐれた幼児のように、今にも泣きそうな途顔をして
ヒカルが待っていた。あの様子では、約束はまだ果たされていないらしい。当たり前だ。
あれから何日も経っていない……。前を通り過ぎようとする自分をヒカルが目で追う。
緒方は無言でヒカルの前を横切った。しょんぼりと俯いた姿を何故か背中に感じた。
ほんの少しだけ首を後ろに向ける。緒方が感じたとおりのヒカルの姿が目に入った。
このまま無視をしようかとも思ったが、大きな瞳が不安気に揺れているのを見ると、どうしても
それが出来なかった。自分は甘い。
緒方は、黙って手招きをした。ヒカルの瞳がパッと輝き、慌てて駆け寄ってくる。その
勢いに乗って、腕にしがみついてきた。
「…おい…?」
緒方がヒカルを離そうとすると、ヒカルはますますその手に力を込めた。目をギュッと閉じ、
懸命に離れまいとする。
ヒカルは甘えられる相手が欲しいのだと思った。すべての事情を呑み込んで、ヒカルを
好きなだけ甘えさせてくれる腕を求めている。
ヒカルは人懐こくて、他人に甘えることになれていた。もしかしたら、前にいたのかも
しれない。ヒカルが屈託なく甘えられる相手が…。
空いている方の手で、ヒカルの頭を撫でてやる。ヒカルは頬を紅潮させ、嬉しそうに
緒方を見上げた。
(144)
緒方の部屋の中で、ヒカルは何をするというわけでもなかった。緒方が棋譜を整理したり、
仕事関係の書類に目を通している間、邪魔をせず、大人しくしていた。いつものように
水槽を眺めたり、詰碁集を読んだり、ぼんやりソファに座っていたり…。
クッションを抱えて、ソファに寝ころんでいたヒカルが、不意に話しかけてきた。
「先生…手紙書いたことある?」
唐突な質問だ。アキラといい、ヒカルといい、どうしていつも突飛な質問をしてくるのだろう。
「そりゃあ、あるさ。」
「どうやって書くの?」
ヒカルが居住まいを正して、真剣に問いかける。
「拝啓とか謹啓とか、挨拶から始まって、時節の言葉を……」
「あ〜〜〜〜もう、そうじゃなくて〜」
焦れったそうに、ヒカルが緒方の言葉を遮った。
「好きな人とかに書くやつ…………ないの?」
「……ラブレターのことか?」
思わぬ言葉に、呆けた声で返してしまった。ヒカルは紅くなって頷いた。
「もらったことならあるが……」
書いたことはなかった。そのもらった手紙の内容も、ハッキリとは思い出せない。どの手紙も
若い女の子特有の思い込みが延々と綴られており、読んでいる途中でうんざりしたことだけ
憶えている。ヒカルにアドバイスを出来るような、印象に残るものは一通もなかった。
「じゃ、ダメだぁ。」
ヒカルはソファに仰向けに倒れ込んだ。クッションをギュッと抱きしめている。
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