裏階段 ヒカル編 146 - 150


(146)
「秀策の棋譜……。…sai…進藤…秀策…そして、幽霊…か」
繋がりそうでうまく結びつかない事名を呟きながら外に出た。
棋院の近くの路上で学生服姿の進藤を見かけた。
アキラや職員の話の事があっただけに気に掛かり、そのまま後をつけた。
進藤はビル街の隙間のような場所にある公園に入ると、ベンチに腰掛け、ぼおっとしていた。
――無意識に棋院に足が向かってしまい、途中で気付いて引き返したのだと後に進藤から聞いた。
そこから少し離れた後方のベンチにオレも腰掛けて煙草に火を点けた。

公園のハトが数羽、何かを期待して進藤の足下に舞い降り、ちらちらと進藤の方を見遣る。
だが進藤は深くベンチの背もたれに寄り掛かり木々の合間の狭い空を見つめているままだった。
ほどなく進藤の隣のベンチに座った老婦人がパンくずを投げ始めるとたちどころに数十羽のハトが
どこからともなく集まりひしめき合った。
それらの自分の周囲のものに進藤が関心を払う気配は微塵もなかった。
あまりに無防備な進藤の様子に心配になった。
誰かが優しげに頭を撫で声を掛け手を引けば、そのまま無抵抗でどこへでも連れ去られてしまいそうな、
そんな邪心を抱かせられるな危うさだった。
実際煙草を吸いに寄り道して来たサラリーマンらしき男が、しきりにベンチの進藤の方を見遣っていた。
だがオレの姿にも気付き、一睨みしてやるとそそくさと歩き去っていった。
スランプだというような話も聞いていない。成績的にむしろ絶好調だったと言える。
酔っていたとは言え、大胆な手法でオレを打ち負かして得意げな笑顔を見せた進藤の事を
思い返して居た。
不敵な笑みを浮かべて見事にオレの鼻っ柱をへし折った覇者の面影と今のそれは別物であった。


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どれくらいの間だっただろうか。オレもまたそんな進藤の姿を黙って見続けていた。
ひと回り小さくなってしまったような、背丈はひょろりと伸びて入るが横顔がひどくやつれて
今にも日光にすら耐えられず消えてしまいそうな儚い存在に映った。
一方で驚く程大人びて端正で整った顔つきとなっていた。病院での時も驚いたが、更にまた
成長期という人体の魔術に感心させられた。

老婦人の手の中のパンくずがなくなったのか、一羽ニ羽とその場からハトが飛び立つ。
ふいにオレの座っているベンチの脇から数人の少年らが公園に駆け込んで来たために、残りのハトが
一斉に飛び立った。
中の一羽は進藤の頬をかすめるように羽ばたいていった。けたたましく大声を出し笑いながら少年らは
公園を横切って歩道へと消えて行く。
それでも進藤の表情に大きな変化はなく、まるでどこか遠くに魂を飛ばしたまま戻って来ないような、
そこに在るのはただの抜け殻のような、それほどに進藤は現実からは遠い場所に居た。


暫く進藤のその様子を観察した後、煙草をベンチ脇の灰皿に押し付け、腰を上げた。
進藤の視界に身を置き一歩一歩近付く。
かなり近寄ったところでようやく進藤の網膜がオレの姿を捕らえたのか、彼は
初めて我に還ったような表情を見せた。
一瞬「あっ」と小さく声をあげ、リュック型の通学カバンを抱えて進藤はベンチから立ち上がった。
頼むから走り出さないでくれ、逃げないでくれと心の中で願った。
病院でのような追いかけっこを街なかでやらかすのはごめんだった。何より今の進藤は
そんな急激な激しい動きに耐えられないように見えた。それほど彼の顔色は悪かった。


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進藤は今にも駆け出しそうだった。ごくりと息を飲むように彼の喉元が動き、じりじりと
後退しかけた。
それ以上間合いを詰めるのを諦めて、代りに静かに声を掛けた。

「…もう打たないとアキラに言ったそうだな。…碁を打つのも止めるのもお前の勝手だ。
お前の人生だ。好きにすればいい」
オレの言葉が予想していたものと違ったのか、一瞬進藤の体から力が抜け、
戸惑うような顔になった。
「アキラくんにはよく言っておくよ。もうお前の目の前には現れないようにとな。
…もう進藤ヒカルを、…saiを追うのはやめろ、と…」
進藤がどう答えるか聞きたかった。
だが心を閉ざしたように結ばれた彼の唇は開かなかった。
その輪郭は病院で捕らえた時よりも肉が削げ堕ち顎が尖り、制服の袖から落ちている
二の腕も少女のような細さだった。
かつて棋院会館の廊下で、はち切れんばかりに覇気に溢れてアキラに対し力強く
宣戦布告した時とはあまりに違った。
進藤に向き合ってみて、ここまで進藤を追い込んだ「もの」に対する怒りが湧いた。
「…お前の体だ。お前の才能だ。…どうしようとお前の勝手だ」
言葉では冷静さを装いそう言いながらアキラの怒りが乗り移ったような強い感情が
オレの中でも渦巻いていた。


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「…緒方さん」
ふいに名を呼ばれて、険しくなりかかっていた目付きを慌てて元に直す。
「…あの時…オレと打った時、…何か気配みたいなもの、感じなかった?」
進藤が逃げなかったのは、何かオレに聞きい事があったからのようだった。
「気配?」
「あ、…えっと…」
ただ彼自身どう尋ねようか迷っているように口籠る。
「…あの時、あの部屋にオレ達以外の“もの”が居たとでも?眠っていた芦原以外に…」
進藤の表情が強張る。
“…オレ達の対局を見ていた秀策の幽霊でも居たのかな?”
喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。

「………別に…特に何もなければ…いいんだ…」
押し出すように小声でそう言うと、今度こそ本当に進藤はその場から立ち去ろうとした。

「秀策についての本ならうちにもあるぞ」
それはどうすれば彼を呼び止められるか、咄嗟に考えて出たものだった。
秀策が、進藤にとって何を意味するのかはわからなかったが限られたキーワードを
ぶつけるしかない。
ここで進藤とこのまま別れたら、もう二度と接点がないような気がしたのだ。


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「えっ…?」
唐突なオレの言葉に進藤も更に困惑したような顔で立ち止まった。
「秀策の棋譜に興味があるんじゃないのか?資料ならオレも多く持っている。
時間があるなら今から来ないか」
「…………………」
暫く沈黙があった。
切り出したカードが果たして有効なのかどうか自分でもわからなかった。

「…………」
オレの真意を計ろうとしているのか、それとも何か他の事を考えているのか、
進藤はオレを見つめ続ける。
これ程までに緊張して相手の反応を待つような事は今までなかあった。
「……いいの?」
高く薄い塀の上で左右に危うげに揺れていたものは、その時はこちら側に落ちてくれた。
「別に構わないよ」
そう言って彼に背を向けて歩き出したオレの後を、間を空けて進藤は黙ってついてきた。
餌で野生の動物を誘き寄せるような行為かなとも思った。相手は現在状況を判断する能力を
著しく欠いている。
ただ憔悴しながらも何かを探し求めて彷徨っている。
彼の足音を背後に感じながら今オレが進藤に対して抱いているこの感情は
何なのだろうと考える。
性的なものが皆無とは言わない。だがそれが全てではない。
疲労しながら虚無の空を漂ううちにこいつはいつかはどこかに落下し、
ガラスのように粉々に砕けてしまうような気がした。
保護者のように手を差し出さないではいられなかった。



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