日記 146 - 150
(146)
静寂が部屋を包んだ。緒方はヒカルの傍らに膝をついたまま、暫くその寝顔を見つめていた。
相変わらず顔色は悪く、頬に濃い影が落ちている。だが、寝顔はあどけない。以前の
ヒカルそのままだ。
スウスウと小さな寝息が聞こえる。安らかだが、暑いのか額に少し汗をかいていた。
緒方は、ヒカルの額にかかる前髪を静かに掻き上げた。そこに手を置き、熱がないのを
確認するとホッと息を吐いた。頭を軽く撫でてやると、微かに笑ったように見えた。
こんな消えてしまいそうな笑みではなく、あの輝くような笑顔が見たいと思った。
ヒカルは元気で無邪気な悪ガキでいて欲しいのだ。
――――――ピンポーン
緒方は現実に引き戻された。慌てて、インターフォンをとった。
「はい?」
「……ボクです。」
一瞬の沈黙。その後で、相手が応えた。
緒方は躊躇った。今、アキラを招き入れていいものだろうか?アキラが突然訪ねてくるなんて
よほどのことだ。アキラと関係があったとき、彼は来る前には必ず連絡を入れていた。
合い鍵を渡した後は、部屋で待っていることもあったが、大概事前に電話をかけてきた。
―――――それほど、せっぱ詰まっているってことか……
ゆっくりと、キーを解除した。
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「すみません。突然、お伺いして…」
そう言いながら頭を下げたアキラの視線が、一点で止まった。明るい色のスニーカー。
「進藤が来ているんですか?」
声が弾むのを押さえられない。ここ数日、ヒカルをどうしても捕まえることが出来なかった。
もしかしたらという気持ちはあったが、本当にここで会えるとは……
緒方は黙って、部屋の奥へ視線を巡らせた。
「静かにな。寝ているんだ…」
アキラを招きながら、自分も足音をたてないように移動する。アキラもそれに習って、
静かに靴を脱いだ。
ソファの上で眠っているヒカルを見たとき、胸が熱くなった。その傍らに屈んで、顔を
覗き込む。久しぶりに見たヒカルの寝顔。長い睫毛、痩せた頬。手合いの日に会ったときより、
幾分顔色は良いようだ。
胸の鼓動が早くなる。なくしてしまった宝物を見つけたような気分だ。小さいとき、
庭に埋めた初めてもらった碁石。目印がなくなりあちこち掘り返して、結局見つけられなかった。
穴だらけになった庭を見て、お母さんに酷く叱られたっけ……あの石は今も庭のどこかに
埋まっているのかな…
そんなことを考えつつ、ヒカルの髪に指を絡めて弄ぶ。アキラは飽きることなく、
ヒカルの寝顔を見つめ続けた。
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ヒカルの髪を弄りながら、アキラは緒方に訊ねた。
「ねえ、緒方さん…進藤はどうしてボクを避けるんですか?」
「緒方さんは、知っているんでしょう?」
背後で、陶器のぶつかる硬質な音がする。首だけで振り返ると、緒方がアキラのために
紅茶を入れてくれたところだった。
「これ、入れるか?」
緒方がブランデーの瓶を振って見せた。アキラは笑って、受け取った。
「入れすぎるなよ。前に進藤が酔っぱらってしまって…」
そこまで言って、言葉を切った。複雑な表情をしている。言いにくいことなのだろうか?
「どうなったんですか?」
アキラは先を促した。
「………キスをされた…」
「酔うと気前がよくなるんだな…」
酒には弱そうだ、しっかり見張っておいた方がいいぞ、と冗談半分に、そのくせ顔つきだけは
真面目に緒方は言った。
嫉妬するより先に、吹き出してしまった。ヒカルを起こさないようにと、声を殺して笑う。
ますます苦しい。涙を拭きながら緒方を見た。面白い情報をありがとう。でも…。
「緒方さん…」
知りたいのはそんなことじゃない。緒方は黙って紅茶を口に運ぶ。
「緒方さん!」
焦れて彼を睨み付けた。視線がぶつかる。色素の薄い瞳が硝子を連想させた。
「―――――――言えない。」
静かに、だが、キッパリと緒方は言った。
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どうして?今、自分はこんなに苦しい。それなのに――――――
「お願いです……でないと…」
眠っているヒカルをチラリと流し見た。そっと手を伸ばして、ヒカルの手を軽く握る。
また逃げたりしないように、ちゃんと捕まえておかないと……。すると、アキラに応えるように
ヒカルも握り返してきた。自分にはヒカルが必要だ。ヒカルだって……。
「お願いします!ボクは…進藤が…」
「意地悪をしているわけじゃない…オレの口からは、本当に言えないんだ…」
緒方は痛ましげにアキラを見、そのままその後ろで眠っているヒカルに視線を移した。
「……緒方さん!」
「オレがキミに話したと知ったら、進藤が余計に傷つく…これ以上、進藤を傷つけたくない…」
アキラは唇を噛み締めた。
―――――緒方さんには、わからない…
ヒカルが緒方を頼りにしているという事実。
そのことに自分がどれほど嫉妬しているか…どれだけ自分が羨望しているか……
『ボクがもっと大人だったら…そうしたら…』
無理やり気持ちを押さえ付けて「わかりました」と、漸く一言だけ言った。アキラの
気持ちを察したのか、緒方は、苦笑混じりに告げた。
「進藤のオレへの態度は…まあ…アレだ…親のあとをヨチヨチついてまわるひよこみたいなもんだ…」
嫉妬をするようなものではない―――――そう言った。
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アキラは、再びヒカルの脇に跪いた。片手はまだ、ヒカルの手を握ったままだ。
眠っているヒカルはとても幸せそうに見えた。汗で、髪が額に張り付いている。
髪を軽く払ったとき、ヒカルがうっすらと目を開けた。
「とうや……」
ふんわりと笑って、手を伸ばす。ヒカルの指先が頬に触れた。感触を確かめるように、
何度も撫でる。
その指の動きがぴたりと止まった。夢の続きを彷徨っていたような瞳が、徐々に光を取り戻し始めた。
「や……なんで…」
ヒカルの身体が小刻みに震える。
アキラは、握っている手に力を込めた。
「進藤…」
「いや、見るな…」
手を引こうとするヒカルを自分の方へ引き寄せる。
その途端にヒカルはけたたましい悲鳴を上げた。
「進藤!」
強く握れば、握るほどヒカルは身を捩って暴れた。
「………進藤…」
仕方なく手を離す。ヒカルは素早く手を胸の中に抱え込んだ。ソファの上で、小さく身体を
縮めて震えている。
「……見ないで…お願い…」
聞き取れないほど小さな声で、背中越しに哀願した。
こんなヒカルを見るのは辛い。でも、自分には見ているだけしか出来ないのだ。ヒカルは
自分の手を必要としていない。もっと大きな手が欲しい。
「…わかったよ…今日は帰るから…」
アキラは立ち上がって、緒方に向き直った。
「お邪魔しました。失礼します。」
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