裏階段 アキラ編 15 - 16
(15)
彼に与えるべきなのはそれだけだったはずだった。
そしてオレに自分がある意味同様に得られなかったそれを彼に与える事が出来るはずがなかった。
「…どこで間違ったのかな。」
長い包容の後ようやく唇が離れた時にそう呟いた。
「何の話ですか?」
まだ鼻先が触れあう程間近な位置でアキラの瞳が妖しく輝いている。
欲しい獲物は絶対に逃さない肉食獣の瞳だ。
昼間は穏やかに年長者に対し礼儀正しく立ち振る舞う優しげな表情の少年と同一人物だと
誰が信じられるだろう。
「ボクたちは間違ってはいません。…決して。」
こちらの迷いを見透かすようにそう言ってアキラは笑みを浮かべ、もう一度顔を引き寄せて
軽いキスをすると服を脱ぎながらバスルームに入っていった。
小学校に上がるころにはアキラは「先生」と門下生とが碁を打つのを興味深く見つめるようになった。
オレが打つ時も石をいじらないという約束を幼いなりによく理解して辛抱強く傍らで座っていた。
どちらかといえば父親よりもオレの傍らに座った。父親と戦っているつもりだったのだろう。
その頃本格的に入門した芦原が自分の膝の上にアキラを座らせようとして逆に拒絶されてしまった。
検討会に大人の中にアキラが混ざる時、大概オレの隣にアキラが座するのを見て
「いいなあ、緒方さんは。アキラくんに懐かれていて。」
と本気でそう言って唇を尖らす芦原に呆れた。そんなのはただ、一緒に過ごした
時間の差でしかないと思ったからだ。
(16)
外を歩いても「あら、かわいいわね」と頭を撫でようとする御夫人の手をそれとなく
避けるアキラを見ていた。
甘えたいという要求が強い程に甘えたがっているという意識を周囲に、特に父親とオレに
気取られないよう彼は振る舞っているように見えた。
そんなある時、ある出来事が起こった。
その頃はオレはまだ眼鏡をかけてはいなかった。
視力は元々良くはなかったがかけないからと言って支障を感じる程ではなかった。
ただやはり日差しが苦手で無意識の内に目を細めて物を見るクセがあり、
「セイジくん、目が悪いならかけた方が良いわよ。でないとますます悪くなるわ。」
やはり見ていて気になるのか明子夫人に何度か言われて面倒だと思ったが眼鏡を作った。
そうして眼鏡をかけて塔矢家に行ったところ玄関に入ったアキラがオレを見るなり不機嫌な
顔になり、いつもそんなに騒ぐ訳ではないが妙に押し黙ったままその日の対局を見ていた。
その事を明子夫人に話したところ可笑しそうに笑われた。
「小学校でね、担任の男の先生に叱られたようなの。他のクラスのお友達に教材を貸してあげて、
でもその子が返しに来るのを忘れちゃって、アキラが皆の前で先生に頭を叩かれたらしくて…
あの子なりにプライドが傷ついたみたい。その先生が眼鏡をかけているのよ。」
「だが、頭を叩いた位で生徒に嫌われたら先生も大変だな。」
「反抗期なのかしら。最近お風呂にも一人で入るって言い張るようになって。」
男の子ならそんなもんでしょう、とその時は深く考えず明子夫人にそう答えた。
学校とは子供が社会に出て最初に理不尽な経験を学び積み重ねる場所だ。
事態が思ったより深刻であるとはその時は気がつかなかった。
別に意地悪なつもりではなかったがその日からオレはずっと眼鏡をかけるようになった。
ある意味アキラと距離感を持つ良い機会だと思ったのだ。彼の保護者となるつもりはなかった。
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