パッチワーク 15 - 17


(15)
昨晩も両親は遅くまで話し合っていたようだった。
いや、正確に言うと母が父へ一方的に言い募っていた。
このマンションは世帯毎の防音はきちんとしているがそれぞれの部屋は具合が悪くなったとき家族が
すぐ気づくようにとパーティーションは天井までの高さがないので音は素通りだ。

朝食の時母が父に
「今日、森下先生がいらっしゃいますから」というと
父が驚いたように母の方を見る。
「私が来ていただくようお願いしました。」
「何故」
「私が何を言っても聞いていただけませんでしょう。ですからあなたがお話を聞いて下さる方に
お願いしました。」

森下先生はヒカルの師匠で、いや研究会に行くようになったのは院生になった後だから弟子とは
少し違うのかもしれない。研究会があるのは手合いと同じ木曜だから二人で検討したくてもできなくて
いつも夜ヒカルが僕の部屋に来た後になってしまう。そして父の同期でもある。この狭い世界で父のことを
呼び捨てにしているのは森下先生だけだ。弟子たちにも「打倒!塔矢門下」といつも気合いの入れるそうだ。
前に棋院で身分証明書の写真を撮ってもらったとき順番待ちで僕の前が既に引退されていらしたがやはり父の
同期の方だった。手合いのと同じ日だったので結構混んでいて順番を待つ間に父の若い頃のことを
いろいろ教えて下さった。親鳥の後ろについて行く雛鳥のように父がいつも森下先生の後ろについて
行っていたこと、森下先生も父のことをよく面倒を見ていたこと。「森下君が結婚したあたり
くらいからかな、塔矢君が一人でいるようになったのは」そこで順番が回ってきてしまって後の
お話は伺えなかった。

父は朝食の後、自室に籠もってしまった。


(16)
昼前、受付より森下先生がいらしたと連絡が入った。
母に頼まれ受付まで先生をお迎えに行った。

久しぶりにお目にかかってひどくおやせになっていて驚いた。
三星火災杯の準決勝の前の晩「森下先生、胃ガン摘出手術成功」の連絡が入りヒカルが安心していたのを
思い出した。対局の後で森下先生の手術が話題になり手術のことを知らなかった父がヒカルの部屋に話を
聞きに来た。そして部屋の状態から父は僕らのことに気が付いた。その場では何も言わなかったが僕が
自分の部屋に戻ると父から部屋に来るようにとのメッセージがあった。このとき母は用事があり日本に
残っていたのは幸いだった。父は奥歯に物が挟まったような言い方で僕とヒカルのことを聞いてきた。
普段このような話し方をすることがない父だけに僕は後ろめたさを隠すために口調が荒くなってしまい、
父の話の途中で部屋を出てしまった。翌日の決勝、僕は父に完敗した。そして父は発作を起こした。
それからのことは切れ切れにしか憶えていない。気が付いたときは病院で芦原さん夫妻が病室にいてくれた。
市河さん(芦原夫人)が言うにはヒカルが僕の部屋を訪ねたら僕が倒れていて救急車を呼んでくれたらしい。
それ以来ヒカルに会っていない。そして、僕が何より驚いたのは帰国してから入院するまでの4ヶ月の間も
手合いには休まず行っていたらしいがその記憶が残っていない、勿論棋譜もだ。昨日、その棋譜を
取り寄せてみたがあまりのひどさに赤面した。どれも、辛勝と言わずにはいられないような内容だった。
だから、ヒカルは僕をもうライバルだとは思わなくなったのだろうか。僕が彼に興味を持ったきっかけは
彼の碁であり謎めいた強さだった。でも惹かれたのは彼の明るさであり、無邪気さだった。だから彼と
碁のどちらかを選べと言われたら僕は彼を選んでしまうだろう。だが、彼にとって僕はまず碁のライバルで
あって、だから僕を好きなんだという。だから僕は彼に選ばれ続けるために碁を続けなくては行けない、
彼にライバルだと思われ続けなくてはならない。

森下先生にヒカルの様子を訊きたい。
でも、森下先生はひどく緊張された様子で話しかけられなかった。


(17)
部屋に戻り玄関のドアを開けると母が待っていた。
母は何かを言おうとしたが森下先生の様子を見るとショックを受けたのがわかった。
「明ちゃん、ひさしぶりだね。」
「行洋は部屋におりますのでご案内します。」
母の言葉が震えている。

僕は台所へ行き、お茶を入れると父の部屋へ運んだ。途中居間で母とすれ違った。
居間へ戻ると母が自分と僕のお茶を入れてくれていた。

ぼくは疲れを感じ少し横になることにし、お茶を持ち自室へ下がった。
母は窓から見える箱根の緑をぼんやりと見ていた。

隣の父の部屋からは二人の会話が漏れてくる。

「行洋、また中国に戻るのか。」
「明子に何を頼まれたんですか。」
ゾッとするほど冷たい声であった。
「また倒れたらどうするんだ。」
「もし、私が死んだとしても。あなたの望み通りでしょう。」
「私は最後まで碁を打っていたい。何を心配しているんですか。」
こんな父の声を聞くのは初めてだ。感情を殺したようなこんな声を。
「行洋」
「あのとき、私は碁ではなくあなたを選びたかった。」
「でも、あなたは私に選ばせてもくれなかった。」
「俺は」
「あなたが私より私の碁を選んだんですよ。」
「なのに、今度は私の碁より私を心配するんですか。」
父の声はまるで泣いているようにも聞こえた。



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