黎明 15 - 23


(15)
「駄目だ。」
けれどヒカルの耳に届いたのは、その熱い身体から発せられたのだとは信じられないほどの
冷ややかな声だった。
それでもあきらめきれずに、ヒカルは僅かに自由の残された下肢でアキラの熱を刺激するよ
うに動かすと、それは頭上から発せられた冷たい声を裏切るように熱く震え、その質量を増し、
熱い涙を零した。

なぜだ。俺はおまえが欲しくて堪らないのに、おまえだって、そんなに熱くなっているくせに、
どうして俺を拒むんだ。どうして俺の求めるその熱を、俺にくれようとしないんだ。俺が一番に
欲しいのはそれなのに。おまえのそれだって、俺を欲しがって泣いてるじゃないか。熱く力強く、
俺を求めているじゃないか。それなのに、それなのにどうして。

望むものがすぐそこにあるのに、それが与えられないのが、それを奪い取ることも出来ないの
が悔しくて、背に回した手で、彼の背中に爪を立てた。その痛みに、アキラが小さな声を漏らし
た。その声は、先ほどの拒否の声とは別物のように熱く、ヒカルの耳に届いた。その熱がもっと
もっと欲しくて、ヒカルは更に爪を立てた。悔しさともどかしさのあまりヒカルの目からこぼれ落
ちた熱い涙がアキラの裸の胸を濡らした。それに応えるように、アキラの腕に力がこめられた。
更にアキラの下肢はヒカルの動きを封じ込めるように、ヒカルの下半身をも押さえ込み、抱きし
める腕の強さはますます力強く、ヒカルは息をすることさえ、困難なほどだった。
出口を封ぜられた熱が二人の身体を煽り、ぴったりと強く抱き合っている身体は、全身が熱く
燃えていた。アキラから発せられる熱い火は触れ合っている部分からじわじわとヒカルを侵食
し、その火が自分の皮膚に、身体に、頭の芯にまで熱く燃え移った事を、ヒカルは感じていた。
ヒカルはいつしか寒さを忘れていた。忘れていたことにさえ、気付かなかった。


(16)
やがて眠りについた彼に衣を着せ掛け、彼の身体を覆うように掛け物をかけ、アキラはそっと
室内を出た。それから火をおこした火鉢を持って戻り、部屋の隅に置いてから、眠っているヒカ
ルの顔を覗き込んだ。
手を伸ばして涙の跡の残る頬に触れようとしたが、突然、弾かれたように手を引き、身体の内か
らわきあがる熱を振り払うように、アキラは夜の闇に彷徨い出た。

どうしたら彼を救えるのだろう。いや、どうする事が彼を救う事になるのだろう。
いや、自分が彼を救おうと考える事自体が、傲慢な事なのではないか。

振り返りながら、アキラはこの先の道の困難さを思った。
あのように熱く激しく求められて、これからも拒み通す自信など無かった。拒むどころか、自分
の身体は、彼以上に熱く激しく、彼を求めていた。その事を彼も知っていたから、その欺瞞に気
付いて、彼は自分を責めた。
欺瞞だ。
彼のためだなんて。
それでも彼を抱くことをしないのは、なぜなのだろう。
身体だけでなく、自分という人間を、欲して欲しいから?
熱を求めるのでなく、自分自身を求めて欲しいから?
そんな自分の強欲さに、自分が抱えている、ヒカルの抱える闇に劣らぬ程の暗い闇に、アキラ
は絶望的な気分になった。
こんな闇を抱えている自分が、彼を救おうなんて、とんでもない思い上がりなのかもしれない。


(17)
ならばいっそ、救おうなどという大それた望みなど放棄して、共に闇に堕ちてしまうのもいいか
も知れない。そんな甘い誘惑に一瞬、飲み込まれそうになりながら、けれども、思いとどまる。
堕ちたところで、彼の闇と自分の闇とは異なるのだ。
同じ闇に堕ちられるのなら、厭うものなど何もない。いっそ、それこそが望ましい。けれど彼の
闇の中にいるのは自分ではなく逝ってしまったあの人で、闇の中にあってさえ、彼は変わらず
同じ人を見つめ続けている。
それが、それこそが耐え難いから、自分は彼を闇から引きずり出そうとしているのだろうか。
結局、彼を救うなどと言う事は大義名分や言い訳に過ぎないのかもしれない。
ただ、闇の中に失った人だけを見つめる彼に耐えられないから。
だからこうやって無理矢理に彼を闇から引き摺り出そうとしているのかもしれない。
彼のためではなく、単に自分のために。
彼に生きていて欲しいと思うのは、元のような、その名の通りの明るい日の光のような彼に戻っ
て欲しいと思うのは、何よりもそういった彼を愛する自分のためで。


(18)
天を見上げ、降るような星々を仰ぎ見る。夕刻には低い空に細く光っていた月は既に沈み、そこ
には見えない。
天を見上げながら、宮中にその才を名高く知られたこの歳若い陰陽師は、天に見える幾千万の
光を、その現象と理(ことわり)とを思った。天にある日も月も星も、みな整然として乱れなく、定め
られた刻に定められた通りに昇り、また、沈んでいく。それらを計り、数え、天の動きから地の動
きを図ることも、彼の才の一つであった。
人々の目には異常とも見える月の赤さも、妖しく強く光りはじめた星も、長く尾を引くほうき星も、
日中に太陽が削られゆき昼日中に都が闇に包まれる事でさえ、全ては天の理の内で、不思議
な事など何一つなく、そうあるべき理由の元に正しい結果としてそう見えるのだということを、彼は
知っていた。ただ、何も知らぬ人にはその過程は見えないから、突然あらわれる現象にある時は
怖れ惑い、ある時は吉兆を見るだけなのだ。

天地(あめつち)の理はゆるぎなく秩序立てられ、その幾何学模様は整然と美しく、流れゆく万象
は彼の目には手に取るように明瞭で、それを見る彼を魅了した。
けれどそれでは、美しく優しかったあの人が自ら命を絶たねばならなかった事も、天の理なのか。
あらかじめ定められた秩序の内なのか。
そんな事はない、と、否定したい気持ちとは裏腹に、それもが正しく秩序であることを認めざるを
得ない自分がいる。それすらも定められた条理の内で、正当な因果として、なるべくしてそうなっ
たのだと言う事は、才長けた陰陽師である彼には否定できない事であった。
世界を司る真理は唯一絶対の真理で、ただそれを見るひとが、ただ一つの真理のうちにそれぞ
れ異なる真実を見るに過ぎないのだ。
それらを深く知った上で、陰陽師は自らの無力を嘆く。陰陽道などと言うものは、所詮、ひとの生
き死ににも、苦しみにも、悲しみにも、何の力にもならぬのだと。


(19)
甘い夢は奪われてしまった。
けれど夢の代償として身に引き受けた寒さは残されたままだった。
日毎、夜毎、吹き荒れる嵐のような飢餓感が彼を襲い、嵐の去った後はただ空虚な闇の中
に彼は取り残された。誰もいない、何もない、自らの呼吸の音さえ聞こえない闇の中で、
虚無が、内から外から、彼を喰い尽くそうと襲い掛かった。いやだ、やめろ、と叫んでも、
発せられた声は闇の中に吸い込まれ、彼の耳に届くことはなかった。何もない空虚な闇だ
けが彼の感じられる全てであった。真空の闇の中で何かを感じて見上げると、鋭い光が、
堅牢に紡ぎ上げた筈の繭を真っ直ぐに切り裂いて己を容赦ない光の元へと晒しだそうとす
る。その鋭い光は暗い虚無以上の恐怖だった。

それでも時折、嵐の合間にふと柔らかな光を感じる。その光に目を凝らすと、白く紗のか
かった輪郭も明暗も全ては不明瞭な視界の向こうに、長い黒い髪が、優しげな暖かな眼差
しが、朧に見える気がする。夢の中で次第に明確になってゆくそれをヒカルは嬉しいと思
いながら、一方で見たくはないと、そのまぼろしを遠くへ押しやって欲しいと願う。背反
する願望にヒカルの心は引き裂かれる。
けれどヒカルの望みとは関わりなく、薄い布が一枚一枚剥がされていくように、霞んだ風
景は日毎に少しずつ明瞭になっていく。そこから目をそらすように、彼は眠りの中に逃れ
ようとした。けれど眠りは彼に安らぎをもたらしはせず、逆に闇が彼を捕えた。それに抗
おうと、そこから逃れようと闇雲に何かを探す手の先に届いた身体に、ただ、しがみつい
た。その肌は今まで知るどんな人よりも熱かった。燃える火のようだと思った。触れるだ
けで焼き尽くされてしまいそうに感じた。燃えるように熱い身体が恋しくて、けれど恐ろ
しくて、それでも他に縋るものなど何もないから、彼はその熱い身体にしがみついた。
その熱は寒さに震える彼の体には心地よかった。だからもっとその熱が欲しくて、煽るよ
うに己の身体を擦り付けた。そうされて益々熱く燃え上がるその身体は、けれど彼がもっ
とも望む熱を彼に与える事は決してなかった。どれ程脅しても、縋っても、焦れて泣いて
も彼の望みは聞き入れられることはなく、だから彼の飢えも満たされる事はなかった。


(20)
香を求める嵐に翻弄される少年を、彼は屋敷の奥の部屋へと移した。
もとより周りの気配には人一倍敏感ではあったが、絶えず隣室の少年の気配をうかがう彼
の神経は休まることはなくなった。
彼の喉から細い悲鳴が漏れ出す。それが始まりの合図だった。
悲鳴は絶叫へと変じ、彼の身体は何かに抗うように暴れる。どこへ、というあてがあって
ではなく、ただここから逃れ出ようとする彼の身体を必死になって押さえつけた。逃げ出
そうと暴れる彼は、この細い身体のどこにそんな力が残されていたのだろうと驚嘆するほ
どだった。
そうして自分を全身で拒否しておきながら、最後には寒さに震え、人肌を求めて縋り付く。
自分が彼に与えられるのはそれだけだった。それでも彼には足りないという事はわかって
いた。必死の力でしがみつく細い身体を愛しいと思う。愛しさに、彼を抱く腕に力を込め
る。けれど、欲しいものはそんなものではないと、腕の中の少年が焦れて涙をこぼす。
自分を認めないくせに、その熱だけを求める彼が、愛しいのか憎いのかわからなくなる。
だから彼の願いを冷たく拒み続けながらも、裸の胸に彼を抱きしめた。

そんな己の矛盾を嘲るような声が己の内から聞こえる。
何に躊躇っているんだ、と、その声は己をそそのかす。
さっさと抱いてしまえ、何を愚図愚図ともったいぶっているのかと。
嫌だ、と、彼は己の内の声に返す。
嫌だ。それではあの屋敷で意識も朧な彼を抱いた男たちと同じではないか。
同じで何が悪い。
違う。僕は彼らとは違う。ただ彼の身体を思いのままにしたい訳ではない。
嘘をつくな。おまえはそうしたくてたまらないくせに。
違う。そうじゃない。
違うって?それじゃおまえのその昂ぶってるモノは何だ。
いいか。よく考えろ。欲しがってるのはあいつの方だ。あいつがおまえを欲していて、お
まえもあいつを欲しているのなら、何を躊躇うことがある?
何を、だって?そんな事はわからない。でも、それでも嫌なんだ。欲しいものはこんなも
のではないんだ。


(21)
「ではそなたは彼に何を与えられるというのです?」
「そなたの望むものは何です?」
あの屋敷で、問い掛けられた問いが甦る。

僕が望むもの。
彼の笑顔。日の光のように明るく力強く健やかな近衛光。
僕が恋した彼は、僕が焦がれた彼は、そういった存在だ。
こんな抜け殻のような彼を手にしたからといって、それが何になる。
そんなものが欲しい訳じゃない。

随分と強欲な奴だ、と、闇の声が嘲るように囁く。
何もかもを望むままに、その通りでなければ欲しくはないとでも言うのか。
何様のつもりだ。
それの何処が悪い?彼の笑顔がもう一度見たいと、思うことのどこが悪い?
悪いともよ。あいつがおまえのために笑わなきゃならない理由なんてどこにもないだろ。
それがなんだ。強欲だろうとなんだろうと、それでも僕はそれが欲しいんだ。
違うね。おまえは、こいつがおまえを見ないから、その嫌がらせにこいつの望むものを与
えないだけだ。
違わぬと言うのならば、つまらぬ意地など張っていないで、さっさと抱いてやれ。
闇の声がそそのかす。
己の内の声に、必死に耳を塞ぎながら、彼を抱く腕に力を込めた。

望んだものは、熱い人肌と甘い夢。
それは確かに彼の望んだものだったのかもしれない、と思う。
他ならぬ自分がまた、それを切望するのだから。
そうして僕は彼から、例えまやかしとはいえ夢と安寧を奪っておきながら、代わりに自分
が彼に与えられるものなど何もないのだ。彼がどんなに望んでも、己自身を彼に与えてや
ろうなどとは思わないのだ。


(22)
心の内に隠した欲望を告げる声に耳を塞いで、また彼は夜の闇に彷徨い出る。
己の熱を鎮めるように冷水を頭から全身に浴びせかけ、それから悲痛な面持ちで天を仰ぎ
見ると、ざあっと風が吹き荒れ、草木を揺らし、彼の身を震わせた。月のない夜の空を叢
雲が流れて星を遮り、風がざわざわと木々を揺らした。
闇は深い。この先、朝が訪れる事など信じられぬほどに、この世は暗い。
けれど夜はいつかは明けるとわかっているから、夜の闇には耐えられる。だが人の抱えた
闇は、明ける事はあるのだろうか。彼を、彼の堕ちた闇からまた日の光の下へと連れ出す
事ができるのだろうか。そして自分は、自分の抱えたこの闇に飲み込まれずにいられるの
だろうか。


(23)
己の内の闇に気付いたとき、経験浅く年若い陰陽師は、初めて闇を恐れた。
かつて彼の目には世界は常に明瞭で見通しがよく、全ては手にとるように明確だった。恐
れるものなど何もないと、思っていた。
ひとびとは闇に跋扈する正体の知れぬ妖しを、ひとを呪い祟りなす神々を、この世の無念
の凝り固まった鬼を、恐れた。だが人の目には見えなくとも彼の眼にはあらわに見える鬼
や妖しは、彼にとっては慎重に処すべきものであり、決して侮りはしなかったものの、ま
た、恐るべきものではなかった。
また、鬼や妖しなどよりもひとの方が恐ろしいと、ひとの心の闇の方が恐ろしいと言うひ
ともいた。確かに、ひとはそれぞれ心の中に闇を抱えている。けれどそれも彼にとっては
怖れるべきものではなかった。ひとの心は容易く闇に侵食され、その闇に魔が宿り、更に
その闇が凝るとオニとなる。けれどそれを哀れとこそ思え、恐ろしいと思ったことは無か
った。
けれど今、自らの内に黒々と沈む底なし沼のような闇に気付いてしまって、己の中のその
闇を、恐ろしいと、彼は思ってしまった。昼でさえ光の届かぬ深い森の奥の、夜の闇より
も尚深い、闇の暗さを、その深さを、己の中のその闇を、若き陰陽師、賀茂明は初めて怖
れた。己の中の闇に気付いて、それまで明瞭に見通せた条理が突然不条理と化してしまっ
たかのような不安に、彼は怯えた。
そして、怖れるものなど何もないと思っていた己の浅薄さを、彼は嘲った。
風は吹き荒れ、雲を走らせ、黒々と繁る木々の梢を、名付け得ぬ我が身の闇をざわめかせる。
夜明けは、暁の時は、まだ遠い。



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