裏階段 ヒカル編 151 - 155


(151)
進藤が嫌がると思い、棋院の駐車場に停めてある車を諦めてタクシーで自宅に向かった。
マンションのドアのキーを回す音に一瞬進藤はビクリと怯えた。
彼の中にも葛藤する部分はあるだろう。
何故自分はここに居るのか、この部屋に入ろうとしているのかと。
決して自分の傍らに立つこの大人に対して信頼感を持っているわけではない。
ただそれらの事に考えを巡らす事も億劫な様子だった。
ある種自暴自棄であったのかもしれない。それがわかっていて彼をここへ連れて来た。
今でも時おりオレのマンションに来るアキラとはち合わせとなるか心配しないでも
なかったが、その時はその時だった。

警戒しながらも素直に進藤は靴を脱いで部屋の中に足を踏み入れた。
本棚のある部屋を示すと、壁一面の蔵書の量に一瞬驚き息を飲んで、ゆっくり慎重に
その周辺を見回し、手を伸ばして背表紙を指で辿る。
そして「本因坊」「秀策」といった単語が視界に入ると、飢えた小動物が木の実に
飛びつき食い漁るように片端から古い本を広げて秀策の棋譜を探し始めた。
取り憑かれたように秀策に関する記述を黙々と読みふける。
それは決して囲碁に興味を無くした者の行動ではなかった。


(152)
「あっ」
まだ幾らも時は経っていないうちに突然思い出したように進藤が声をあげた。
「…もう…帰らなくちゃ…」
それを聞いてそれまで息を潜めて進藤の様子を眺めていたオレの体からぐったりと力が抜けた。
「…夕食までに家に帰らないと…でないとお母さんが心配するから…」
一度はプロの世界に入り込んだとは言え、進藤はまだ中学生の子供なのだと思った。
読みたい本を選んで帰らそうと思ったが、進藤は寸時には選び切れず、
困ったような訴えるような顔をして名残惜しそうに多くの本とオレと交互に見つめる。
「明日また来ればいい」
「緒方先生…」
「そういえば、お前に渡して無かったかな。…フッ、こういうものを交換するような機会も
なかったが」
パソコンの前の椅子に掛けていた上着から紙入れを取り出して名刺を進藤に手渡した。
「いつでも来れる時間に来ればいい。絶対家に居るという保証はないが、一度
電話を掛けてから来てくれれば――」
進藤はぼんやりとそれを見つめていたが、こくりと小さく頷いてポケットに入れた。


(153)
そして玄関に向かうと運動靴を履き、ドアを開けかけて、そしてオレの方に振り返った。
「…緒方先生、オレの事見てたの?公園で…」
「あ、ああ」
ふいをつかれたような質問にドキッとした。
「…どうして?」
「……どうしてって…」
先刻まで弱々しい光を浮かべていただけの進藤の大きな黒々とした瞳が、その時は何かを
問い質そうとして真直ぐにオレに向けられる。
さらりと柔らかく揺れる前髪の隙間からの射るような視線にたじろぐ。
そこにはアキラ以上に大人びた表情があった。
そんな進藤に対し、オレは情けない位露骨に返答に迷う表情を見せてしまっていた。
これだ。
こういった何かの拍子にこいつは例えようも無い妖しさを持って、人の心の奥深くに
印象を刻み付けてくる――。
そんな進藤にますますオレは言葉を出せなくなる。
まるで蛇に睨まれ射すくめられたカエルのように。

「…変だよ。…塔矢も、…緒方先生も…」
小さくため息をつきながらそう呟くと進藤はドアの向こうに消えた。


(154)
次の日の午後、感心な事に進藤は言われた通りに近くに来た時点で一度電話を
掛けてよこして来た。
『…もしもし…あの…』
受話器を通した彼の声は初めて聞いたがすぐにわかった。
「いいよ、来なさい」
その日は指導碁の仕事をキャンセルし、自宅で囲碁の雑誌に寄せる文章を
片付ける事にしていた。
妙に気持ちが高揚し落ち着かなかった。
そしてチャイムが鳴り、ドアを開けると私服の進藤が立っていた。

白いTシャツに進藤には大きめなサイズに見えるチェックの模様のシャツを羽織り、
ブカブカのジーンズといった今時の若者の姿だった。
それらは痩せ細った体形を隠そうとしてかえってスリムさを強調しているようなものだった。
進藤はカバンも持たず体ひとつで来たようだった。
言葉少なにオレの前を横切り、真直ぐ本棚に向かう。
ジーパンに繋がっているアクセサリーのチェーンがチャリリと小さく音を起てる。
財布か携帯か、チェーンの先に何があるかは知らないが、そういった目に見えない何重もの
細い鎖が今の彼の全身にも絡まっているように見える。
そのうちの数本は確実に彼の皮膚に食い込んで血を流させている。
進藤は昨日と比べて幾分落ち着いた仕種で本を選び、こちらに背を向けてストンと
その場に腰を下ろしページをめくり始めた。
日を追う事に身を刻むその鎖に抗う事無く、体内の全ての血を吸い取られるまで静かに待つ
受刑者のようだった。


(155)
ふと、昔の――全てに絶望してただ「先生」の棋譜を並べる事でかろうじて人間らしい意識を
繋ぎ止めていたあの頃の自分を思い出した。
息苦しさを感じて己の首を擦る。
――鎖に囚われていない者などいないのかもしれない。
アキラも、そして先生も。世代も年令も関係ない。
今の状態の進藤を放っておけないのはそのせいかと思った。
進藤に優しくする事で自分の抱えた古傷を慰め癒そうとしているに過ぎない、
そう思えて小さく舌打ちし、進藤の存在が無いかのようにパソコンに向かおうとした。
だが当然意識は進藤から離れず仕事は上の空だった。
そうして彼の後ろ姿を見つめる。
言葉にならない緊張感がその背中に漂っていた。
昨日の会話の後で彼はこの部屋に来た。
それが何を意味するか。
彼は再びこの部屋に来たのだ。オレのテリトリーの中に。

何かを決意したように眼鏡を外して机に置き、彼の背後に近付く。
進藤もその気配に気付いたような反応を見せたが、あくまでオレの行動に無関心と言うように
棋譜を眺めていた。だがオレが間近に立つと急に立ち上がり、
「…帰る」
そう言って部屋を出て行こうとした。
目の前を横切ろうとする進藤の腕を掴んだ。
気がついた時は、細い肩の感触、そして、初めて触れ合わせた彼の唇の感触を貪っていた。



TOPページ先頭 表示数を保持: ■

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル