日記 151 - 155


(151)
 夢の中で、ヒカルはとても幸せだった。隣にはアキラの笑顔があった。あの優しい瞳で
ヒカルを包んでくれていた。重ねた手の温もりが、夢とは思えないほどリアルで、ヒカルは
その温かさに縋った。
『オレ、ずーっと逢いたかったんだ…』
 遠くで何か話し声がする。ヒカルの意識は少しずつ覚醒していった。
『やだよ…オレはもっと夢を見ていたいんだよ…眠っていたいんだ…』
だけどヒカルの意志に反して、どんどん声が大きくなる。
 うるさいなと思いながら、目を開ける。間近にアキラの顔があった。
『なぁーんだ…これも夢じゃん…』
それなら、何をしてもいいよな―――――
ヒカルはゆっくりと手を伸ばした。頬に触れる…サラサラと髪が手にかかった。
『わ――――すっげーリアル……』
感触を確かめるように、何度も頬を撫でた。
『あれぇ?』
指先から伝わる体温が、ヒカルに何かを告げている。
『うそだ…』
アキラの温もりを残したまま、ヒカルの指先は凍ってしまった。
 「進藤…」
懐かしい声。いつもヒカルを抱きしめながら、顔の紅くなるような睦言を囁く少し掠れた
甘い声。
『イヤだ…聞きたくない…だって、まだ…勇気がでない…!』
もう少し…もう少しだけそっとしておいて欲しい。そうしたら、ちゃんと話すから……。
 握られた手が痛い。……?握られた手?慌てて、手を引こうとした。が、予想外の
力で引っ張られた。
その瞬間、あの時の恐怖が甦った。力任せにヒカルを床にひき倒し、暴力でもって引き裂いた。
「あああぁぁ………!やだ、やだ、やめてよ!いやぁ―――――――――――!!」
やめて…怖いよ……
ヒカルはアキラが手を離すまで、叫び続けた。


(152)
 アキラが緒方に挨拶をしている。その間も、ヒカルは、タオルケットにくるまって震えていた。
――――――――キイ…
ドアを開ける音。
 そして、バタンと重い音が耳に届いた。
「塔矢!」
ヒカルは急いで、跳ね起きた。裸足のまま、玄関を飛び出すと、走ってアキラを追いかけた。
いや、走っているつもりだった。実際は、ふらふらとよろめきながらでなければ、前に進めなかった。
「………塔矢………塔矢…」
 ヒカルが漸くエレベーターホールまでたどり着いたとき、もうすでにアキラはいなかった。
「……………塔矢…」
ヒカルはペタンとその場に座り込み、地面に突っ伏して泣いた。しばらくそうしていたが、
手の甲で顔をこすると、ゆっくりと立ち上がった。そして、来たときと同じように、
ふらつきながら、緒方の部屋へと戻った。
 緒方は玄関で待っていた。ヒカルを迎えに行こうかどうしようかと迷っていた様だった。
「………先生…塔矢が行っちゃった…オレ…間に合わなかったよぉ…」
ヒカルは緒方に縋り付いた。広い胸に顔を埋めて泣いた。
「…だって……怖かったんだ…すごく怖かったんだよぉ…」
 今度こそ本当に愛想を尽かされたかもしれない…まだ、何にも話していないうちに嫌われて
しまった。そう思うと涙が止まらない。
 緒方が大きな手で優しく背中をさすってくれた。


(153)
 緒方は、ヒカルを先ほどと同じところに座らせた。ヒカルは何度も目を擦り、涙を拭った。
でも、何度拭いても、後から後から零れてきて、ヒカルの指を濡らした。
「ほら…もう泣くな…お前いくつだ…十五か?もう十六になったのか?小学生みたいだぞ?」
緒方が、暖かいカップを手に取らせた。中身はミルクだ。
「それも…欲しい…」
ヒカルは、テーブルの上に出されたままのブランデーの瓶に目をやった。
 緒方は、ヒカルの手の中のカップに、ほんの少しだけ琥珀色の液体を注いだ。
「そんだけじゃ足りない…もっと……」
「酔っぱらうぞ?」
そう言いながらも、もう少しだけ足してくれた。
「や、もっと…」
「これ以上は駄目だ。」
緒方は、ふたをきつく閉めると、さっさと片づけてしまった。
――――――どうして、わかってくれないんだよ……
ヒカルは、焦れて叫んだ。
「酔いたいんだよぉ…」
何にも考えたくない。アキラのことも、和谷のことも…全部忘れたい。
「酒に逃げるなんざ、十年早いんだよ!」
鋭い声で叱責されて、ヒカルは、肩をビクリと揺らした。
 「だって、だって、もうヤダ……なんにも考えたくない…忘れたいんだよぉ…」
カップの中のミルクに小さく波紋ができた。いくつもいくつも…。
「……忘れたいよぉ」


(154)
 グスグスとヒカルが鼻をすする。
「ごめん…ごめんなさい…わがまま言って…」
俯いたまま、暫く、静かに泣いていた。
「オレ…ホントは先生に頼っちゃいけないって…甘えちゃいけないって…わかってるんだ…」
「迷惑ばっかかけて…先生を振り回して…」
手が小刻みに震えている。
「…でも…」
ヒカルは、深く息を吸い込んだ。
「オレ…もう先生しか頼れない…みんなオレから離れていく…」
お願い…側にいて…独りはイヤなんだ―――――――
ヒカルの唇が弱々しく綴る。ヒカルは、流れる涙を拭おうともせず緒方を見つめる。
痛々しくもあえかな姿とは、相反する壮絶な色気があった。眩暈がしそうだった。


(155)
 ヒカルの隣に腰をかけ、肩を抱いた。頬に幾筋もついている涙の跡を指でたどる。ヒカルは、
甘えるように緒方の胸にもたれ掛かってきた。持っていたミルクのカップを取り上げ、そっと
キスをした。抵抗はない。
「怖くないのか?」
緒方の問いにヒカルは小さく頷いた。
「アキラ君は怖いのに?」
「……でも、先生は怖くない…何でか、わかんないけど…」
しゃくり上げながら、ヒカルは答えた。
「先生は違う…」
 緒方は苦笑した。それは、自分は“男”として、いや“雄”として対象外ということだろうか?
「これでも?」
ヒカルのシャツの下に、手をくぐらせ、胸をまさぐった。
「……!あ…やぁ…」
さすがに、驚いて身を捩って逃げようとする。緒方の太い腕が、ヒカルの腰にまわされた。
「やだ…!やめてぇ…!」
ヒカルの瞳から、せっかく止まったばかりの涙がまたあふれてきた。
 緒方は、ヒカルを自分の膝の上に乗せると、赤ん坊をあやすように宥めた。
「悪かった…」
「うぅ…」
ヒカルは、拳で緒方の胸を何度も叩いた。



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