平安幻想異聞録-異聞- 153 - 158


(153)
乱れた金茶の髪の間を縫って、睨み上げるヒカルの視線を受け流して、座間が扇
をひらいて口元を隠して嘲笑うように言った。
「次も大事なお客様の予定じゃ。滞りなく『御接待』申し上げるのじゃぞ。
 近衛ヒカル」
その言葉に、ヒカルの体から力が抜ける。
(「次」ってなんだよ)
今夜も、あんなことがあるんだろうか?
実はこの時、ヒカルは初めて座間にまともに名前を呼ばれたことに、後で思い
返して気付いたが、この時はその言葉の衝撃の方が強かった。
座間がきびすを返し、渡殿の向こうへ姿を消す。菅原もヒカルを押さえてい
た手を放して後に続いた。ヒカルはそのまま床の上に、力なく座り込んだ。
侍女がいつもと変わらぬ仕草で黙って着替えを差し出す。
汚れた体を侍女に拭われながら、ヒカルは、ここに来て初めて、夜が来るの
が怖い、と思った。

例え、どんなに避けたくても、時というのは無情に流れやがて日が落ちる。
ヒカルは今日も、嫌なかんじのする下半身のかったるさを引きずったまま、座間と
ともに出仕し、またこの屋敷に戻ってきてしまった。
帰ってきたときには既に部屋にはあの、香の匂いが垂れ込め、昨晩と同じように
菅原と座間に強引に頤を押さえつけられて、胃に薬を流し込まれる。薬は鼻の奥
をちくちく刺すような妙な匂いが微かにした。


(154)
たった一人、部屋の中に捨てられたように残される。
じわりと、体が熱を持ちだす。足や手の先の感覚がボウっとして、
じっとしていると、まるでもう一人の自分がいてその手足を眺めているような
奇妙な幻覚に襲われた。
キシキシと渡り廊下が踏まれる音がして、誰かがこの部屋に近づいているのが
わかった。
上げられた御簾の向こうに、暗い夜空が見えた。薄い雲の向こうに隠れて、
月がその位置だけを主張するかのように、雲の色を黄色に染めていた。
部屋の入り口に、侍女に連れられてきた男が膝を突いて座ったのがわかった。
月の光りのちょうど逆光の位置になってしまい、顔はよくわからない。
しかし、今夜はその男、唯ひとりだった。
ヒカルは、壁によりかかるようにしていた体を起こして座り直した。
思い通りにならない体をぎこちなく動かし、なんとか綺麗な姿勢に座り直す。
座間の言う『大事な客』がどんな者であろうと、あまりにみっともない姿は
さらしたくなかった。
月を覆う雲が厚くなり、外界からの光りが届きにくくなったせいで、ようやく
ヒカルにも、室内の灯明の明りに照らし出されるその男の顔が確認出来た。
意外にも知らない男ではなかった。
ヒカルは信じられない思いでその顔を見つめた。
ヒカルの前に座るその若い公達。
その男は、伊角信輔だったのだ。


(155)
薄手の織物で仕立てられた藍の直衣を身にまとったその男は、
朧月を背に、そつなく整った顔をヒカルの方に向けていた。
口が乾いて、言葉を発するために唇を引きはがすのに苦労してしまった。
「伊角さん…」
これが定められた業だとかいうものなら、神様はひどく性格が悪いに違いない。
伊角信輔は、内裏に綺羅星のごとくその存在を輝かせる殿上人の中でも、ヒカル
が信用することの出来る数少ない人物の一人だったのだ。
「何しにきたんだよ」
言葉には、自然と刺ができた。
「何って、おまえに会いに来たんだよ、近衛」
平素と変わらない、ヒカルのよく見知った伊角信輔の柔和な笑顔。
「それにしても、趣味の悪い香の匂いだ。あ、いや、すまない。
 近衛が好きなのか? これ」
「ううん、全然」
「そうか、座間殿の趣味なのかな。ちょっと失礼する」
言って立ち上がると、伊角は御簾を自分で半分まであげ、扇を開いて、はたはたと
部屋にこもる空気を外にはたきだす仕草を始める。
少々毒気を抜かれて、ヒカルはその様子を眺めていた。
昨日の男達と同様、彼はヒカルを――抱きに来たのではないのだろうか?
乾いた秋の夜の空気を部屋の中に導き入れて満足した様子で、伊角はヒカル
に笑いかけた。
「なかなかいい部屋じゃないか。調度品も少ないし、随分そっけなくはあるけれどな」
「部屋のことはいいよ。なんで、ここに伊角さんがいるんだよ?」
火のつきかけた体に、秋の夜気は余計に冷たく感じられた。だが香と薬の効果に、
油断すればすぐに取り留めもなく流れていってしまいそうな思考を、その冷たさが
つなぎ止めた。


(156)
「だから、おまえに会いに来たんだ。俺がおまえに会いたいと思っちゃ
 おかしいのか?」
「そんなことないけど…。座間から何か言われてないの?」
「いや、近衛に会いたいと昼間のうちに面会を申し込んだら、座間殿にこの時間に
 来いと言われたんだ。さっきここに着いて御挨拶した後は、何事もなく侍女に
 この部屋に通されたが。それ以外は、座間殿とはほとんど話しらしい話はして
 ないよ。にしても、近衛。佐為殿や賀茂から、意に染まない伺候だと聞いては
 いるが、仕える家の主人を呼び捨てにするものじゃない」
いつもどおり裏表のない伊角の物言い。ヒカルは肩の力が抜ける思いがした。
もしかして知らない? この部屋が、何を行なうためにしつらえられたものなのか。
自分を見つめる伊角の目の奥をのぞき込んだ。そこには、人が誰でも持っている暗い
淀みがある。だが、伊角はその心の淀瀬に足をとられてはいない。その淵に立ち
ながら、岸辺にとどまり、その暗闇を見据える心の強さを持っているのだ。
彼は多分、本当に、何も知らされされていない。
自らの暗闇に溺れていた、昨日の男達とは違う。
裏切られたわけじゃない。
まだ、この人を信じていいのだ。そう思ったら、心が軽くなった。
嬉しくて笑いたくなった。


(157)
その笑いをかみ殺すヒカルの表情に伊角は目ざとく気付いたらしい。
「何がおかしいんだ?」
「なんでもない。伊角さんは伊角さんだなぁと思ってさ」
「なんか、気になる言い方だな。馬鹿にしてるのか?」
そう言いながら伊角もまた笑って、ヒカルの頬に手をやり、その熱さに
驚いて手を引いた。
「近衛、具合悪いんじゃないのか?」
「ああ……。うん。俺もそうとう趣味の悪い薬、飲まされてるから……」
「薬?」
「うん。いいよ、とにかく、伊角さんに会えて良かったよ」
「うん。俺も近衛に会えてよかったよ。元気そうで…は、ちょっとないみたい
 だけどな」
伊角の手が、ヒカルの頭をくしゃくしゃとなでた。
「あぁ、そうだ。肝心の用事を済ませないとな」
「用事?」
「会いに来たといっても、ただ顔を合わせに来たわけじゃない。俺は今日、
 佐為殿と賀茂の使いとしてお前の元によこされたんだよ」
ヒカルは、ハッとしたように伊角の顔を見返した。


(158)
直衣の下に辛子色の単衣を着込んでいた伊角は、その単衣の袖口の縫い目を、
糸切り歯を使って切ってほどく。その部分だけ、布が二重になっていた。
そして、その布の間から取りだされたのは、一枚の紙の札。墨で何か
文字が書いてある。その文字をどこかで見たことがあると少し考えて、
思い当たった。ヒカルの太ももに刻み混まれた、あの「印」の形に似ているのだ。
「伊角さん、これ?」
「賀茂からの伝言だ。これを敷物の下とか調度品の後ろとか、とにかく座間邸の
 人間に見つからないところに隠しておいて欲しいそうだ。なんでも……」
手の中のそれをヒカルに渡しながら、伊角は声を低く小さくした。
「この札があれば、賀茂の式神は座間邸に張られた結界を抜けることが
 できるのだと、式神を使って近衛と連絡を取ることができるのだと言っていた」
ヒカルは伊角の顔を凝視しながら、言われたことの意味を反芻した。
式神が、結界を抜けられる?
賀茂や佐為と連絡が取れる?
思ってもみなかった伊角の差し入れに、ヒカルは胸が詰まって何の言葉も
返せない。
大きな瞳で、穴があくほど自分を見つめているヒカルに苦笑しながら、
伊角が続けた。
「だが、これを座間邸の結界の中にいるお前に手渡すの、まずは人でなければ
 ならなかった。佐為殿や賀茂が、座間にお前との面会を申し込んだ所で、
 慇懃無礼に断られるのがオチだろう? だから俺に白羽の矢があたったのさ。
 近衛や佐為殿にはいろいろ借りもあるしね」



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