平安幻想異聞録-異聞- 155 - 159
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薄手の織物で仕立てられた藍の直衣を身にまとったその男は、
朧月を背に、そつなく整った顔をヒカルの方に向けていた。
口が乾いて、言葉を発するために唇を引きはがすのに苦労してしまった。
「伊角さん…」
これが定められた業だとかいうものなら、神様はひどく性格が悪いに違いない。
伊角信輔は、内裏に綺羅星のごとくその存在を輝かせる殿上人の中でも、ヒカル
が信用することの出来る数少ない人物の一人だったのだ。
「何しにきたんだよ」
言葉には、自然と刺ができた。
「何って、おまえに会いに来たんだよ、近衛」
平素と変わらない、ヒカルのよく見知った伊角信輔の柔和な笑顔。
「それにしても、趣味の悪い香の匂いだ。あ、いや、すまない。
近衛が好きなのか? これ」
「ううん、全然」
「そうか、座間殿の趣味なのかな。ちょっと失礼する」
言って立ち上がると、伊角は御簾を自分で半分まであげ、扇を開いて、はたはたと
部屋にこもる空気を外にはたきだす仕草を始める。
少々毒気を抜かれて、ヒカルはその様子を眺めていた。
昨日の男達と同様、彼はヒカルを――抱きに来たのではないのだろうか?
乾いた秋の夜の空気を部屋の中に導き入れて満足した様子で、伊角はヒカル
に笑いかけた。
「なかなかいい部屋じゃないか。調度品も少ないし、随分そっけなくはあるけれどな」
「部屋のことはいいよ。なんで、ここに伊角さんがいるんだよ?」
火のつきかけた体に、秋の夜気は余計に冷たく感じられた。だが香と薬の効果に、
油断すればすぐに取り留めもなく流れていってしまいそうな思考を、その冷たさが
つなぎ止めた。
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「だから、おまえに会いに来たんだ。俺がおまえに会いたいと思っちゃ
おかしいのか?」
「そんなことないけど…。座間から何か言われてないの?」
「いや、近衛に会いたいと昼間のうちに面会を申し込んだら、座間殿にこの時間に
来いと言われたんだ。さっきここに着いて御挨拶した後は、何事もなく侍女に
この部屋に通されたが。それ以外は、座間殿とはほとんど話しらしい話はして
ないよ。にしても、近衛。佐為殿や賀茂から、意に染まない伺候だと聞いては
いるが、仕える家の主人を呼び捨てにするものじゃない」
いつもどおり裏表のない伊角の物言い。ヒカルは肩の力が抜ける思いがした。
もしかして知らない? この部屋が、何を行なうためにしつらえられたものなのか。
自分を見つめる伊角の目の奥をのぞき込んだ。そこには、人が誰でも持っている暗い
淀みがある。だが、伊角はその心の淀瀬に足をとられてはいない。その淵に立ち
ながら、岸辺にとどまり、その暗闇を見据える心の強さを持っているのだ。
彼は多分、本当に、何も知らされされていない。
自らの暗闇に溺れていた、昨日の男達とは違う。
裏切られたわけじゃない。
まだ、この人を信じていいのだ。そう思ったら、心が軽くなった。
嬉しくて笑いたくなった。
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その笑いをかみ殺すヒカルの表情に伊角は目ざとく気付いたらしい。
「何がおかしいんだ?」
「なんでもない。伊角さんは伊角さんだなぁと思ってさ」
「なんか、気になる言い方だな。馬鹿にしてるのか?」
そう言いながら伊角もまた笑って、ヒカルの頬に手をやり、その熱さに
驚いて手を引いた。
「近衛、具合悪いんじゃないのか?」
「ああ……。うん。俺もそうとう趣味の悪い薬、飲まされてるから……」
「薬?」
「うん。いいよ、とにかく、伊角さんに会えて良かったよ」
「うん。俺も近衛に会えてよかったよ。元気そうで…は、ちょっとないみたい
だけどな」
伊角の手が、ヒカルの頭をくしゃくしゃとなでた。
「あぁ、そうだ。肝心の用事を済ませないとな」
「用事?」
「会いに来たといっても、ただ顔を合わせに来たわけじゃない。俺は今日、
佐為殿と賀茂の使いとしてお前の元によこされたんだよ」
ヒカルは、ハッとしたように伊角の顔を見返した。
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直衣の下に辛子色の単衣を着込んでいた伊角は、その単衣の袖口の縫い目を、
糸切り歯を使って切ってほどく。その部分だけ、布が二重になっていた。
そして、その布の間から取りだされたのは、一枚の紙の札。墨で何か
文字が書いてある。その文字をどこかで見たことがあると少し考えて、
思い当たった。ヒカルの太ももに刻み混まれた、あの「印」の形に似ているのだ。
「伊角さん、これ?」
「賀茂からの伝言だ。これを敷物の下とか調度品の後ろとか、とにかく座間邸の
人間に見つからないところに隠しておいて欲しいそうだ。なんでも……」
手の中のそれをヒカルに渡しながら、伊角は声を低く小さくした。
「この札があれば、賀茂の式神は座間邸に張られた結界を抜けることが
できるのだと、式神を使って近衛と連絡を取ることができるのだと言っていた」
ヒカルは伊角の顔を凝視しながら、言われたことの意味を反芻した。
式神が、結界を抜けられる?
賀茂や佐為と連絡が取れる?
思ってもみなかった伊角の差し入れに、ヒカルは胸が詰まって何の言葉も
返せない。
大きな瞳で、穴があくほど自分を見つめているヒカルに苦笑しながら、
伊角が続けた。
「だが、これを座間邸の結界の中にいるお前に手渡すの、まずは人でなければ
ならなかった。佐為殿や賀茂が、座間にお前との面会を申し込んだ所で、
慇懃無礼に断られるのがオチだろう? だから俺に白羽の矢があたったのさ。
近衛や佐為殿にはいろいろ借りもあるしね」
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ヒカルは、なぜ伊角がここに来たのかわかった。賀茂アキラがなぜ、
これの役目を伊角に託したのか。
伊角は良家の生まれだ。勉学武術もよくし、次世代の若手の出世頭として、
内裏にその勢力を広げる有力貴族達に、自分たちの派閥にこそ引き入れようと、
手ぐすね引いて狙われるるほどの人物だった。
その伊角が、半年程前、ある事件に巻き込まれた。それには、縁あってヒカルも
おおいに関わることになり…というよりこの事件において、ヒカルが伊角の
面倒見役と言っても過言ではなかったのだが、伊角はこの事件以降、変わった。
それまで、彼がどこの派閥にも与しなかったのは、その生まれながらともいえ
る優柔不断のせいであり、それゆえ、かの御仁はどこのお人の足元に下るのかと、
各派閥の貴族らがその動向に一喜一憂ていたものだったが、半年前のその桜の
季節以降、伊角はどっちともつかないその態度をすっぱりと切り捨てた。
だからといって、誰かの派閥についたというわけでもなく、大貴族達を驚かし
たのは、彼が積極的に「無派閥」であることを自分の意思として表し始めた
ことであった。
権力の為の政治ではなく、民の為、真に国を治めるための政治を。
貴族達が自分の名を飾り立てるための官位ではなく、真に国を平らかにする者に
与えられる名としての官位を。
一部の貴族達の神経を逆撫でしかねないその態度に、伊角の両親も驚いて彼を
いさめたというが、あの温和で知られる伊角が、その両親と三日も口論した揚げ句、
その態度を曲げなかったというのだから、決意の程が知れる。
そして、その伊角のまっすぐな態度は、昔ながらの公卿達に眉をひそめられる一方、
親や親族の血肉を削るような権力闘争を見て育った若い公達たちの、圧倒的な支持を
集めた。伊角の周りにはいつの間にか、彼の意思に賛同し、若者らしい理想に
燃える若年の貴族達が集まり、皮肉にもそれは「無派閥」を唱える伊角を中心に
「伊角派」と呼ばれる一大派閥を形成してしまったのである。
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