日記 156 - 160
(156)
「わかっただろ?お前は無防備すぎるんだよ…」
ヒカルの手が止まった。何のことかわからない…そう言いたげな瞳で緒方を見つめる。長い
睫を涙が濡らしていた。
「お前をあんな目にあわせたヤツが誰かは知らないし、聞く気もないが…少し…本当に…
ほんの少しだけだが、気持ちはわかる……」
ヒカルは、目を見開いた。緒方の言葉が信じられないとでもいうように…。
「オレはお前が好きだし、可愛いと思っている…甘えられれば嬉しいし、望んでいることが
あるなら、叶えてやりたいと思っている…でも…」
一呼吸おいた。
「でも…時々…苦しい……」
とうとう言ってしまった。緒方の胸に添えられていたヒカルの手が力無く下ろされた。
「………オレ…何かした…?」
「何も…何もしてない……」
「……でも…オレが悪いんだね…?」
ヒカルは悪くない。だが、それを説明するのは難しい。無邪気に甘えられて、嬉しいと
思う反面、苦しかった。自分の劣情を持て余して、ヒカルを引き裂いたのは、もしかしたら、
自分だったかもしれない。
「オレが悪かったの?だから―――も……」
誰かの名前を言ったようだが、よく聞こえなかった。
「いや、お前は悪くない…」
ヒカルは、キッと緒方を睨み付けた。
「だったら、おかしいじゃん!悪くないんだったら…何で…何で…」
ヒカルの目からポタポタと大粒の涙が零れた。
「オレ…もぅ…わかんねえ…」
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ヒカルが両手で顔を覆って泣き出した。
「何…が…悪いの?オレ…自分…じゃ…わから…ねえよ……」
涙でつっかえながら訊ねる。
「教えてよ…悪いところは全部直すよ…だから…」
ヒカルが涙で濡れた瞳で、緒方を見つめた。
「オレを見捨てないで…お願い…」
こんな風にお願いされて、拒めるヤツなどいない。だけど、それがまずいのだ。
『そんな目で見るな……進藤…』
誰だって、誤解する。
端からヒカルを見捨てるつもりはない。けれど……。
「もっと、自覚しろよ…そんな風に煽るな!」
「あお…る?」
大きな瞳が不安に揺らいだ。ヒカルは、怯えるように、それでも真っ直ぐに緒方と視線を合わせた。
視線が絡み合う。不意に、ヒカルは悲しげに眉を曇らせた。そして、ゆっくりと瞳を伏せる。
ヒカルは静かに緒方の膝の上から降りた。床におかれたままの鞄を取り上げ、のろのろと
玄関へと向かう。
「進藤…!?」
緒方は、慌てて後を追いかけた。
ヒカルは、屈んでスニーカーの紐を結んでいた。その作業を終えると、ふらつきながら立ち上がった。
「……オレ…先生の言っていることよくわかんねえ…」
「進藤…」
背中を向けたままヒカルが告げる。緒方を見ようともしない。
「先生は、オレが悪いって言ってる……」
「…違う!」
小刻みに震えるヒカルの肩を掴んで、自分の方へ向けた。
緒方の予想に反して、ヒカルは泣いてはいなかった。ただ、その黒瞳には悲しみだけが
漂っていた。
「……でも…オレもそう思う……」
「…きっと…オレが悪かったんだね…」
ヒカルは眉を八の字に歪めたまま、微笑んだ。
緒方はその表情に、一瞬、心を奪われた。その隙に、ヒカルは緒方の腕の中からするりと抜け出し、
そのまま部屋を出て行った。
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マンションを出たとき、もうすっかり日は落ちていた。街灯の明かりが、ヒカルの身体を
仄暗く浮かび上がらせる。近くの駅は、仕事帰りの人や、これから夏の夜を楽しもうと浮かれる
人たちであふれていた。それが、余計にヒカルの寂しさをかき立てる。
何とはなしに、後ろを振り返った。そこには誰もいない。いつも当たり前のようにそこに
居た人はもう永久に帰ってこない。視線を斜め前方に戻した。やはり誰もいない。いつも
ヒカルよりほんの少しだけ前を歩いていたアキラ。彼の手も離してしまった。
そして、今日、緒方は追ってきてはくれなかった。
最後の避難所を失って、ヒカルは途方に暮れた。もうどこにも行けない。これからは、
自分の部屋の中だけが、安心できる場所になってしまった。人通りの多い、こんなに賑やかな
場所に居てさえも自分は独りだ。
真っ直ぐ家に帰る気にならず、肩を落として、とぼとぼと歩く。あまり早くは歩けない。
すぐに息が切れてしまうからだ。そんなヒカルの目の前を影が遮った。
ヒカルは驚いて、顔を上げた。
「ね、ひとり?暇?」
「俺たちと遊びに行かない?」
「カラオケとか好き?」
三人の男が、早口でまくし立てる。年はヒカルと同じか、少し上くらい。格好もヒカルと
似たり寄ったりのストリート系だ。
『なに?ナンパ?』
女の子に間違われることは少なくない。ヒカルは黙って踵を返した。そのヒカルの腕を
一人が強く掴んだ。
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瞬間、ヒカルの身体は動けなくなってしまった。恐怖で身体が震えてしまう。
「逃げなくてもイイじゃん。俺たち怖くないよ?」
腕を振り払うこともできなくて、ヒカルは凍り付いたように三人を見つめた。
「……アレ?」
手を掴んでいる男が、ヒカルの間近に顔を寄せた。
「ん――――――………もしかして…キミ男?」
ヒカルは固まったまま、ウンともスンとも言わない。
「え〜〜〜マジかよ!」
「ウッソ!あ〜〜ホントだ〜」
お前もっとよく見ろよ、お前だって可愛いって言っただろ、暗いからだ――と、ヒカルを
無視して三人は揉め始めた。
しかし、ヒカルを捕らえていた男が、怯えるようなその表情に気がついて、慌てて手を離した。
「ゴメンな?」
ヒカルの顔を覗き込むようにして、謝った。他の二人も、苦笑いで後に続けた。
「女の子と間違えちゃって…ゴメン…」
「もしかして、俺達、男の子に声をかける危ないヤツって思われた?」
ヒカルは俯いたまま、首を振った。慌てる彼らがおかしくて、ぎこちない笑みを口元に
浮かべた。
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(上に続けてください)
三人が同時に息を呑んだ。その仕草は彼らの目には、酷く可憐に写ったらしい。だが、ヒカルには、
それがわからなかった。ただ、三人の瞳の中に別の色が混じったのを瞬時に見て取り、
心の中がざわめいた。
「………でも…ホント…マジで可愛いよ……」
「お前、危ねーよ!」
茶化す男の声も、心なしか上擦っている。
「………ホント、惜しかったな…さ、行こうぜ!」
自分たちの中に芽生えた感情を振り払うかのように、残る男がせき立てた。
口々に「ゴメン」と謝りながら、彼らは去っていった。ヒカルは、一人取り残された。
「……………なんだよ…チク…ショ…!」
小さく毒づいた。なんだよ!アイツら!ヒカルの心臓を凍らせておいて…死ぬほど怖がらせて
おいて……。
「………チクショウ…チクショウ…」
涙が出てきた。止めたくても止まらない。ゴシゴシと目を擦った。
誰に向かっての言葉なのか…彼らに対してなのか…それとも…自分に対してなのか…
「チクショウ…」
緒方の言葉は本当だ。愛だとか恋だとか、好きか嫌いか、そういう感情を抜きにしても、
自分は、男にとって十分そういう対象になるのだ。認めたくはないが、それが事実だ。
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