裏階段 三谷編 16


(16)
知覚が戻るのに多少は時間がかかったかもしれない。
水を吸った衣服の冷たさと重さを感じ始めたと同時に傍らに人がいる事に気がついた。
正確には自分に向かって真直に歩を進めて来る者の存在に、だった。
「コートを脱ぎなさい。」
伯母の金切り声の後で、その声はひどく穏やかで人間的なものに聞こえた。
だがその声の主の顔をなかなか視線を向けて見る事が出来なかった。
もしその時、伯父や、その周囲に居た伯父と同じ人種のような目がそこにあったらと
思ったからだった。その頃伯父は、オレを指導碁に同行させて相手に“紹介”する事が
あった。伯父が彼等から借金を重ねているのは容易に推測出来た。

躊躇している間に声の主の相手がこちらに手を伸ばし、かけ鞄を肩から外した。
それだけの動きで、強引でもなく強制でもないいたわりが伝わって来た。
相手は鞄を受け取りながら片手で自分のコートを脱ぐと、濡れたコートを脱いだ
こちらの肩にかけてくれた。年令の割に長身であったが、大人の背丈の上質そうな
コートの下端は濡れた埃まみれの地面に触れた。
意を決して顔をあげるとその相手は、騒ぎに顔を覗かせていた隣家の主婦に声を
かけるため後ろ姿を見せていた。
「すみませんが、タオルを貸していただけませんか。」
丁寧な物腰に主婦が一瞬顔を赤らめて頷いたように見えた。
そうして受け取ったタオルで水滴が落ちる毛先を包んでくれたその人の顔には
見覚えがあった。数回伯父と対局をしたことがあるプロ棋士の一人だった。



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