平安幻想秘聞録・第三章 16 - 18
(16)
「いや、それには及ばぬ。近衛光殿も同席していただいてかまわぬと、
東宮さまの仰せだ」
えっ!?と声を出しかけて、慌てて光は口元を押さえた。
「職務に忠実な検非違使だと、東宮さまも感心されておられた。身分違
いだと気にされることはないぞ」
そこまで言われては、ヒカルだけを残すわけにはいかない。まさか昼
日中の内裏で無体なことはされまいと、佐為は腹を括った。
「では、お言葉に甘えて光も同席させていただきます」
「うむ。では、ご案内しよう」
向かう先は当然、東宮の住む梨壺(昭陽舎)だ。
「佐為・・・」
「大丈夫。私が一緒にいるのですから、ね」
「う、うん」
佐為殿をお連れ致しましたと男が声をかけると、中から襖がするりと
開けられた。出て来たのは随身らしい長身の男だった。さすがにヒカル
には見覚えのない相手だ。
「どうぞ、入られよ」
「失礼致します」
促されて佐為は部屋の中へと歩を進めた。自分たちを呼びつけた本人
は几帳の奥にゆったりと座して待っていた。その表情が、ふと変わる。
佐為の後ろに控えるヒカルの姿に、確かに彼の中で何かが満ちたのが分
かった。
高貴なお方のほんの気まぐれだと思っていたのですが・・・。
佐為は、その美眉を顰めながらも畳に手をつき、頭を下げた。
「藤原佐為でございます」
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「よう参られた」
そう佐為に声をかけながらも、東宮の意識がその後ろに注がれてるの
は明白だ。ちらりと肩越しに見れば、都随一の陰陽師である明がせめて
もの魔よけにと持たせてくれた護神刀を邪魔にならぬように脇に置き、
ヒカルは心持ち俯くようにして静かに座していた。
吸い込まれるような快活な大きな瞳も、いまは長い睫毛に半ば隠れ、
緊張からか引き結ばれた唇と相まって、佐為ですらどきりとするほどの
色香があった。
慌てて正面の殿上人へと視線を戻せば、当の本人は魅入られたように
ヒカルを見つめたままだ。
「東宮さま」
佐為の表情が僅かに険しくなったのを見て取り、東宮の側近らしき男
が東宮に声をかける。
「佐為殿にはすぐに指導碁をしていただかれますか?」
「あぁ、そうだな。佐為殿、お疲れではないか?」
「お気遣い、かたじけなく存じます。大丈夫でございます」
佐為としては東宮への指導碁に手を抜くつもりはなかったが、気持ち
としては一刻も早く終わらせて、ヒカルを連れて屋敷に帰りたかった。
表面は皆にこやかにしているが、この部屋にいる者は全て東宮の側近。
ヒカルと佐為にとっては四面楚歌もいいところだ。
それではと、見るからに造りのいい碁盤と碁笥が運ばれて来る。脇と
脚に塗りの入った細かい細工の碁盤に、物珍しさも手伝ってついヒカル
は前へと身を乗り出した。
そのとき、ヒカルは初めてまともに東宮を見た。そして、そのまま固
まってしまった。東宮もヒカルには見覚えのある顔だったからだ。
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「光の君も碁を嗜まわれるのかな?」
そう東宮に声をかけられ、惚けていたヒカルは慌てて畳に手をつき、
身を屈めた。急に平安の世では自分と相手の間には月とすっぽんほどの
身分の開きがあることを思い出したからだ。
「あっ、ごめんなさ・・・じゃない!失礼致しました」
ここで佐為と、今は名を借りている近衛光の立場を悪くするわけには
いかない。吊りそうになる舌を何とか動かし、更に身を縮こませた。
「良い、良い」
東宮は大して気にした様子もなく、にこやかに傍らに控えた女房に、
ヒカルにもお茶と菓子を持ってくるように告げる。ヒカルはほっとして
それを受け取り、小さく息をついた。
指導碁が始まってしまうと、東宮は意外にも佐為からの指導に集中し、
ヒカルを特別気にかけることもなかった。おそらく使われている碁石も
いい物なのだろう、パチリと盤面に打たれるたびにいい音を立てる。
碁を打つときの佐為の優雅な動きに見惚れる。実力的には格下の相手
に対する指導碁であっても真剣で、そしてどこか楽しそうだ。東宮は悪
い打ち手ではないらしい。
つつがなく碁の指導が終わり、それではと佐為が退出を仄めかすと、
呆気なく許しが出た。
「では、失礼を致します」
「ご苦労であった」
一礼をして立ち上がった佐為とヒカルは目を合わせ、思わず微笑んだ。
佐為の表情からも先程までの厳しさが抜けている。ヒカルの姿を間近で
見たことで東宮が満足したか熱が冷めてしまったと思ったからだ。
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