日記 16 - 18
(16)
和谷のアパートの前まで、とりあえず来てみたものの、ヒカルはまだ躊躇っていた。
何度もノックを仕掛けては、手を下ろすを繰り返した。やはり、帰ろうと踵を返しかけたとき、
不意にドアが開き、中から和谷が飛び出してきた。
「あれ?進藤、来てたのか?何やってんだ入れよ。」
「和谷…どこかに行くの?」
ヒカルは、突然現れた和谷に狼狽えながら、訊ねた。
「ああ。飲み物足んなくてさ。買ってくる。」
「じゃあ…じゃあ…オレも行くよ。」
慌てて後を追いかけてくるヒカルに、和谷はちょっと驚いたようだが、すぐに破顔した。
二人で並んで歩く。ヒカルは、アパートに残るのが怖かった。自分にキスをした相手が
誰だかはわからないけど、あの中にいるのだ。そして、それは、和谷ではないような気が
していた。いや、そうでなければいいと言う希望だ。和谷はヒカルにとって、いい友人で、
頼りになる兄貴分だった。
でも、そんなことを言ったら、勉強会のメンバーはみんなそうなのだ。優しくて、頼り
になる先輩達。だからこそ、よけいにヒカルは混乱してしまうのだ。
(17)
和谷は、ヒカルの様子がいつもと違うのが、気になった。自分の横を俯いて歩くヒカルを、
あらためて和谷は見た。目線が和谷より少し下にある。初めて会ったときは、もっと
小さかった。あのころよりずっと身長は伸びたが、その分自分も成長しているので、
いつまでも、差は縮まらない。和谷にとってヒカルは可愛い弟分で、面倒を見てやるのが
とても楽しかった。
だが、いつの頃からかその感情に別のものが、混じっていることに気がついた。生意気で
やんちゃなヒカルの表情に、何とも言えない憂いを見つけたからだ。ふっくらとした頬も
小さかった手も、子供子供していた全てのものが、気がつけば、すっきりと大人のそれに
変わっていた。やせた頬、繊細な首筋、長く伸びた手足、変わらないのは、零れそうに大きな
瞳と人懐っこい仕草だけだ。それでも、それは、可愛がっていた弟が、いつの間にか、
大人になっていたと言う感傷の域を出ていない。少なくとも、和谷自身はそう思っていた。
あの時まで……。
(18)
視線を感じて、ヒカルが顔を上げた。その瞳に、和谷の心臓がドキンと鳴った。目を
逸らして、胸の動悸を聞かれないようごまかすように言った。
「なぁ。先週、何で帰っちゃったんだ?朝、お前がいないからびっくりしたぜ。」
ヒカルの身体がビクッと震え、視線が空を彷徨った。
「あ……お母さんに早く帰るように言われてたの忘れてて……」
「でも、早朝黙って帰らなきゃいけないのかよ?」
「………」
和谷の問いかけに、ヒカルは黙り込んでしまった。再び、俯いて、目を半分伏せた。
その頼りなげな横顔に、和谷の視線は釘付けになった。
見とれている和谷の方を見ずに、ヒカルが顔を上げた。
「和谷……ゴメン……オレ、やっぱり帰る…」
絞り出すように言うが早いか、ヒカルは、走って行ってしまった。
その走り去る背中を和谷は黙って、見送った。だんだん小さくなるヒカルが、完全に
見えなくなるまで、そこにじっと立っていた。
和谷が、アパートに帰ったとき、ほぼいつものメンバーがそろっていた。伊角が声を
かけた。
「おかえり。まだ、進藤来てないぜ。」
「進藤さあ…さっき、来てたんだけどさ…何か、帰っちゃったんだよね。」
「帰ったって…なんで?」
「知らねえ……」
和谷の素っ気ない返事に、伊角も他のメンバーも不思議そうな顔をした。
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