夜風にのせて 〜惜別〜 16 - 19
(16)
十六
それから数日後、学校から帰宅した明は、自宅の前に見覚えのある黒い大きな車が止まっ
ているのを見つけた。
明の胸は高鳴り始める。ひかるが自分に会いに来たのだと思ったからだ。
明は足早に家の門をくぐった。そして震える手で玄関のドアを開ける。
「ただいま帰りました」
期待を胸に扉を開けた明だったが、そこにはひかるはおらず、あの男性がいた。
「おかえりなさい、明さん。高橋さんという方がお見えですけれど」
母親は不安そうに男性を見る。一切事情を語っていなかった明はあとで話すと母親に言う
と、男性を客間へ案内した。
「高橋、という名前だったんですね。ひかるさんはお元気なのですか」
明は落胆しつつも尋ねた。
すると高橋は黙って持っていた紙袋を手渡した。中には手紙の入った封筒とレコードが入
っていた。明はそれを取り出す。そして驚いた。そのレコードのジャケットにはひかるの
姿があったからだ。
「これは?」
「ひかるさんの…最初で最後のレコードです」
高橋はそう言うと明に背を向けた。明は訝しげに思い、もう一つの封筒に入った手紙を取
り出して読み始めた。
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十七
手紙にはこう書いてあった。
明さん、お元気ですか。
この前レコーディングをしました。念願だった歌手デビューに、私は幸せでいっぱ
いです。この唄は私がいつも新宿の高級クラブで歌っていたものです。いつも明さん
を想いながら歌っていました。夜風にのせて、明さんにこの唄が届くようにと。よか
ったら、聞いてくださいね。
それから、ごめんなさい。明さんを傷つけてしまって。でも本当のことを言えなか
った。許してくださいとは言いません。けれども、あなたにずっと恨まれたままこの
世を去るのは辛すぎます。だから真実を話そうと思います。
私は今重い病気に罹っています。この病気で昨年母を亡くしました。だからたぶん
私も…。でも私は幸せです。歌手の夢も叶ったし、明さんとも出会えたし。本当はも
っと生きたかったけれど、そんなの贅沢すぎますよね。
最後にお願いしてもいいですか。今は結ばれることはなかったけれど、生まれ変わ
ったら、また私と一緒になってくれませんか。私はあなたがすぐ見つけられるよう光
り輝くから、あなたは私を見失わないよう追いかけてきてください。私もあなたを追
いかけます。
それでは、またお会いしましょう。
「これは、どういうことですか?」
明は訳がわからず尋ねる。
高橋はしばらく黙り込んでいたが、重い口を開いた。
「亡くなったひかるさんの枕元にあった手紙です」
愕然とした明は、手紙を床に落とした。
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十八
「亡くなった? だってひかるさんはあなたと結婚して、幸せな家庭を築いているのでは
なかったのですか?」
明は詰め寄った。だが高橋の目からいくつもの泪が流れ落ちるのを見て、怖くなった。
「自己紹介が遅くなりました。私はひかるさんの主治医である高橋と言います。本当はこ
の手紙を渡すのをやめようかと思いました。だって結婚という嘘は、あなたに心配をさせ
ないようにするためのものだったからです。ひかるさんは自分の命がもう長くはないこと
をわかっていたのでしょう。私は少しでも長く生きられるよう治療にあたったのですが…」
明は未だ信じることができず、ひかるのレコードをケースから取り出すと再生した。
穏やかなギターやピアノの音色とともにひかるの甘い歌声が鳴り響く。初めて聞いたひか
るの歌声は明を夢の世界へと誘った。ボリュームを上げて、その世界にどっぷりと浸かる。
ひかるの息を吸う音が聞こえた。ひかるがそこで確かに生きていたことを感じると、明の
泪はとめどなく流れ落ちた。
「明さん、申し訳ない。私の力不足でした。けれど悲しまないでください。ひかるさんと
来世で必ず会えます。今度こそひかるさんを幸せにしてください」
高橋はそう言うと、ひかるの手紙を拾い明の手に渡した。
「ひかるさん…、ひかるさんの声聞こえるよ。夜風にのせて届いたよ」
明は泣きながら唄に耳を傾ける。それを包み込むようにひかるの優しい声がスピーカーか
ら延々と流れ続けた。
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十九
早朝、あの川べりの道を歩く男性がいる。あれから少し腹も出て白髪交じりの頭になった
高橋だった。手には大きな封筒を持っている。
東の空から太陽の姿が見え始めると、高橋は封筒から台紙を取り出した。そして太陽の光
を見せるように写真を掲げる。その写真には学生服の少年と赤いロングドレスの妖艶な女
性というアンバランスな組み合わせの二人がうつっている。ひかると明だった。
ひかるの死から数年後、社会人になった明が過労で亡くなったという知らせを聞いた高橋
は、形見分けでもらったこの写真を持って、毎朝二人がしていたようにこの道を散歩する
ようになった。
明は結局誰とも結婚することなく、ひかるを生涯愛し続けて亡くなった。
高橋は二人が形として結ばれなかったとしても、心が結ばれていたのだから幸せだったの
だろうと思った。だが早すぎた二人の死に、医者として自分が無力な気がした高橋は、罪
を償うかのようにこの川べりの道を毎朝訪れた。そして朝陽に向かって祈る。今度こそ二
人が結ばれるようにと。
高橋はそれをいつまでも繰り返した。
その数十年後。
二人は再び出会うことになる。だがその時の記憶などない。けれども二人は自然と互いを
求めた。過去に悲しい物語があるとも知らずに。
〜惜別〜 終わり
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