トーヤアキラの一日 16 - 20
(16)
対局場に入るとアキラは座席を確認する。ヒカルはアキラのすぐ後ろで対局するらしい。
ヒカルの相手は御器曽七段で、ヒカルが負ける事は考えられなかった。自分も早く対局を
終わらせないと、ヒカルが先に帰ってしまう事になる。
とにかく対局に全力を傾けるために、目を瞑って精神を集中させる。
アキラが対局を終わらせて後ろを振り向くと、ヒカルも対局を終えた所だった。ヒカルと
対局者の様子から、ヒカルが勝ったことが察せられる。予想していた事とは言え、アキラは
心の底から安堵した。もし負けていたら話しかけることが出来ないような気がしたからだ。
部屋を出て行くヒカルを追ってアキラも部屋を後にする。
荷物を取りに行くヒカルに思い切って声をかけた。
「進藤!」
声が上ずっているのが分かる。そして、振り返ったヒカルの顔を見た瞬間、心臓が高鳴る。
「あ、塔矢。お前も終わったの?」
「うん」
「そっか、勝ったんだな」
「うん」
「なんか、お前と話すの久し振りだな」
「うん」
「どうしたんだ?『うん』しか言わないのか?」
そう言いながらヒカルが苦笑する。
「え・・・っと」
「本当にどうしたんだ?何か用か?」
「うん」
アキラは緊張して声が出てこない。このままではヒカルが怒って帰ってしまうと思うのに、
何を喋ったら良いのか混乱してわからなくなっている。
(17)
アキラの様子に多少の違和感を感じながらも、ヒカルは特に気にする様子も無く
「丁度良かった、オレ、お前と話がしたかったんだ」
とサラっと言う。二人の関係からすればあっておかしくないヒカルの申し出であったが、
今のアキラにとっては驚天動地の言葉であった。
心臓は早鐘のように打ち響いて1キロ四方に聞こえそうであったし、体中の血液が顔に
集まってきて火を噴きそうだった。胸が苦しくて言葉は一切出てこない。
「ん?塔矢?具合でも悪いのか?顔が真っ赤だぞ。熱でもあるんじゃないのか?どれ」
と言って、事もあろうに右手をアキラの額に当ててきた。
「う〜ん、よく分からないな。とにかく外に出ようぜ」
「う、うん」
アキラは返事をするのがやっとだった。
エレベーターで下に降り、棋院を出て歩く。今までなら何とも思わない行動であったが、
今のアキラは全身がアンテナになった様に神経が張り詰めている。エレベーターに二人きりで
乗っていると、ヒカルの息遣いが感じられる。それだけで心臓はさらに高鳴り、立って
いるのが辛くなるほどだ。一緒に並んで歩くとヒカルの体温が伝わって来るようで、
さらに顔が発熱するのがわかる。
自転車を避けようとしてヒカルがぐっとアキラに近づいて来た。顔の発熱とは逆に
緊張で冷たくなっている手に、さっき額に当てられた時と同じ、ヒカルの暖かく柔らかい
手が微かに触れる。心地良い肌の温もりに、アキラは思う。
───この進藤の柔らかい手を取って、引き寄せて抱きしめたい・・・・・・・
アキラが初めてヒカルに抱いた淡い情欲だった。
(18)
ヒカルは、歩きながらずっと最近打った碁について喋っていた。アキラは「うん」とか
「そうだね」としか言わなかったが、とにかくヒカルは喋りたかったようだ。
いつどこで決まった事なのか分からなかったが、ヒカルは当然の様にファーストフードの
お店に入って行き、カウンターで飲み物やポテトを注文する。
「お前もポテト食べるだろ?飲み物はコーヒーでいいよな」
「うん」
アキラが財布を出そうとすると
「あ、いいよ後で」
と言って、トレイを持って、スタスタと禁煙席の奥の方に歩いていく。その場所は少し
奥まっていて、隣の席からも少し離れているので落ち着く場所なのだ。
コートを脱ぎながら座ると、ヒカルはまた話を続けた。
ヒカルの口から繰り出される碁の話を聞いている内に、少し落ち着いて来ていたアキラは、
ヒカルの向かい側に座り、ヒカルの顔をひたすら見つめる。
この一ヶ月、会いたくて会いたくて仕方なかったヒカルの顔。大きく見開かれた瞳は
キラキラ輝きながら、アキラの顔とトレイにあるポテトを行ったり来たりしている。
夢中で喋る事で興奮しているのか、頬はうっすらとピンク色に染まっている。口元は
喋ったり食べたりで、忙しく動いている。ポテトの油で少し光っている唇は、赤みがあって
艶を帯びていて、恥ずかしくてアキラは直視する事が出来ない。細い首に付いている可愛い
突起は、食べたり飲んだりするたびに上下に動く。
今までは意識しなかったヒカルの全てが愛しく思え、自分のヒカルに対する恋愛感情が
嘘では無かった事を、はっきりと悟った。
(19)
ヒカルは、ずっと熱心に自分の話を聞いているアキラに対して、思い出したように聞いて来た。
「そういや、塔矢。別に具合は悪くないのか?」
アキラがうなずくと、ホッとしたように微笑み、すかさず聞いてくる。
「それでさ、その後なんだよ。実戦ではそこでかわして来たんだけど、塔矢はどう思う?」
「えっ?」
「一見、良い一手に見えるよな?」
「えっと、実戦でのその先の展開は知らないけど、色々な場合に備えて、ボクなら内から
ノゾいて様子を見るかな。その方が結局は足が早いし、隅に対しての睨みも利くと思う」
ヒカルは我が意を得たりとばかりにアキラを指差しながら
「だろ?な?そうだよな?やっぱりなぁ!塔矢ならそう言うと思ってたんだ!!」
と言って、満足そうにポテトを口に放り込む。
アキラは、ヒカルの期待に応えられたような気がして、嬉しさと恥ずかしさでまた顔が熱く
なるのがわかるが、ヒカルから視線を逸らすことはせず、じっと見つめている。
「ところで、お前の用事って何?」
「えっ?いや、別に、その、キミと碁の話がしたいと思って・・・・」
「やっぱお前も?俺もさ〜お前の意見が聞きたかったんだよな。同じ事考えてたんだな、ハハ」
「・・・・・・・・」
「やっぱりさ、お前と碁の話をするのはいいよな。ツーと言えばカー、っつうの?ヘヘヘ」
「・・・・・・・・」
「碁会所はちょっとアレだけどさ、時々こうやって碁の話したいよな」
そう言ってヒカルはすぼめた口にストローを咥えてコーラをグイグイと飲む。
飲みながら上目遣いでアキラを見て、不安そうな表情に変わった。
「あ、いや・・・4月まで来ない、とか言ったのはオレだしさ・・・・。ひょっとして怒ってる?」
「えっ?」
「だって、怖い顔して睨んでるからさぁ」
「そ、そんな・・・・」
(20)
目の前に会いたくて仕方なかったヒカルが居る。嬉しそうに目を輝かせて碁の話を
している。ヒカルが喋る度に、食べる度に、飲む度に動く口と喉仏。それを見ている
だけで、体中の毛細血管がはちきれそうなのに、ヒカルの口から意識せずに発せられる
言葉の数々に、アキラの心は完全に翻弄されていた。
───怒ってるわけがない。その逆だ。お願いだから、もうそれ以上ボクが舞い上がる
ような事を言わないでくれ。
「あ、うそ、やっぱり怒ってるじゃん!!お前のその目を見るの、久し振りだよな・・・
真剣な目って言うのか、怒ってるみたいって言うのか。その目に引きずられてオレは
プロになったようなもんだからな、ヘヘヘ」
アキラの中で感情の堤防が決壊して、伝えるつもりの無かった言葉が自然に飛び出す。
「進藤!キミが好きだ!」
「?へ?」
「キミが好きだ!」
「な、なんだよ!いきなり!!驚かすなよ!もー、心臓に悪いんだよっ、塔矢!!」
ヒカルの怒鳴り声で我に返ったアキラは、前のめりになっていた体をゆっくり椅子の
背もたれに動かす。そしてヒカルを見つめたまま、今度は落ち着いてゆっくりと言う。
「ごめん。でも本当の事なんだ・・・・。キミが好きだ、進藤」
「ちょ、ちょっと待て!塔矢。落ち着け!・・・・どうしたんだ?」
「ボクは落ち着いてるよ。・・・・キミの事が好きなんだ。」
「・・・・・、あのさ、それはさ、友達としてだろ?」
「そうじゃない。友達としてなんかじゃない。プロ仲間としてでもない。ライバルの
一人として好きなわけでもない。・・・・キミに恋愛感情を持っているということなんだ」
「・・・・・・・、塔矢・・・・」
ヒカルは驚きで、大きな目をさらに見開いてアキラを見る。アキラは黒い大きな瞳を
真っ直ぐにヒカルに向けて、視線で訴えかける。
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