クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 16 - 20
(16)
――こっ、こえー。
思わず一歩退いてしまった光の横で、佐為はにっこりと微笑み頷いた。
「いいですとも!皆さん勉強熱心ですね。午後からは時間が空いていますから、
こちらに窺って指導致しましょう」
御簾の内からキャーッと黄色い歓声が上がった。
あかりが嬉しそうに顔を輝かせる。
「ありがとうございます!よかったぁ、佐為様最近あちこちからお召しがあって
お忙しそうだから、お願いしていいのかなぁってみんなで悩んでたんです!
それじゃ、中宮様の御座所まで私がご案内しますね」
弾むように先に立って歩き出したあかりの後について、
佐為が御簾の内に向かいもう一度にっこりと花のように微笑みかけると、
今度はほうっ・・・と感嘆の溜め息が洩れた。
バタバタと幾人かが失神して倒れた気配すらする。
――こ、コイツって・・・
多少引いた笑みを浮かべながらついて歩く光をよそに、佐為はうきうきした声で
「最近碁に興味を持ってくださる人が増えて嬉しい限りです。私ももっともっと
精進して、皆さんに追い越されないようにしないといけませんね!」
と呟いていた。
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「さてと、佐為様は夕方まで指導碁だと思うけど・・・光はこれからどうするの?」
中宮の座す弘徽殿まで恙無く佐為を送り届けてから、あかりが振り向いた。
「オレ?もう帰るよ。検非違使庁のほうは今日非番だし、
帝や中宮様の御用で佐為が呼ばれる時は帰りに随身をつけてもらえるから、
今日は先に帰っていいって言われたんだ」
本当は、他に随身がいても己を頼ってついていて欲しいと言ってもらえるなら、
そのほうが嬉しい。
だが、佐為が先に帰ってよいと云うのも己に気を遣ってのことだと光には解っていた。
もっと云えば、己と明に気を遣ってのことである。
こちらからは特に話してはいないけれども、佐為は薄々光たちの関係に
気づいているようだった。
数日前の一件以来光は仕事が忙しくて明に会っていないし、
折角の休日を利用して仲直りなさい――という心遣いなのだろう。
――佐為、ありがとな。
心の中で手を合わせつつ、今日は久しぶりに明に会いに行けるという嬉しさで
胸が高鳴ってくる。
この間明は先に帰ってしまったが、もしかしたら本当に具合が悪かったり
用事が出来たりしたのかもしれない。
一目会えば、この間はすまなかったねと笑いかけてくれるかもしれない。
もし己が何か明を怒らせてしまっているなら、ちゃんと訳を聞いて仲直りすればいい。
・・・今ぐらいの時間なら、明はいつも陰陽寮で仕事に精を出している頃だ。
一言挨拶を交わすだけでもいい。早く明の顔が見たい。
気が急いて、光はずんずん早足になった。
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「あん、待ってよ。光に聞きたいことがあるんだから」
「聞きたいこと?何だよ」
あからさまに面倒臭そうな顔をした光に、あかりがぷうっと頬を膨らませた。
「明様のことよ。最近宮中に出ていらっしゃらないみたいだけど、どうしたの?
なせの君や他の女房たちも心配しているよ」
「・・・賀茂が?えっ、アイツ・・・仕事に来てないのか?」
「知らないの?光。ずっと欠勤なんだって。迎えの牛車が明様のお邸に行っても、
本日は障りがあって出られませぬ、って」
「そんな・・・」
光は目の前が真っ暗になった。
数日前、明はやはり調子が悪かったのだ。それに気づかず一人で帰して、
しかもずっと放ったらかしにしてしまった。
一人ではろくに食事すら作れない明を――
「ご病気でもして臥せってらっしゃるんじゃないの?ねえ光、お見舞いに行って
差し上げたほうが――」
あかりが言いかけた時、パタパタッと何かが羽ばたく音がして、
小さな影が光の周りを滅茶苦茶に飛び回った。
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「うわッ!何だコイツ」
「と、鳥!?ただの鳥だよ、光」
見ると丸っこい体つきの緑色がかった鳥がパタパタと忙しなく羽ばたき、
何かを懸命に訴えるように光の衣の端を嘴で引っ張っている。
「オマエ――何処かで見たことがあるぞ」
それは明の式神だった。
物言わぬしもべ、たった一人の家族として明と共に暮らしてきた存在。
あの晴れた日に、光と佐為に付き添われて明は彼に別れを告げ、
彼は少し寂しそうに鳥と化して自由な大空へと羽ばたいていった。
「賀茂の、式神か。オレを呼びに来たのか?・・・アイツに、何かあったんだな」
鳥は人間がするように何度も小さく頷いて、先導するように空へと翔けあがった。
「光、どういうこと?あれ、明様の鳥なの?」
「うん、まぁそんなもんだ。
オレ、アイツについてこれから賀茂んとこに行ってくる!」
「あ、ちょっと待って!だったらこれを持って行って、明様に差し上げて」
あかりが差し出したのは、読めない異国の文字と――
蛇が渦を巻いているような奇妙な図柄とが描かれた、正方形の紙片だった。
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「あぁ?何だこれ」
「魔除けの護符よ。何日か前に宮中に訪ねて見えたみこ様からいただいたの」
「みこさまぁ!?・・・って親王様かよ?オマエいつの間に、そんな高貴な方を
通わせてたんだ」
確かにこの幼馴染みは黙っていればなかなかの美少女だ。
この年になれば、そろそろ通う男が居てもおかしくはあるまい。
だが親王などという非現実的に高貴な男が相手となれば話は別だ。
はねっ返りの幼馴染みがやんごとなき相手と雅な恋をする図が
どうしても想像出来なくて、光は素っ頓狂な声を上げた。
だがあかりは顔を赤くして光をどついた。
「いでっ」
「もうっ、違うわよ!一の宮様って云ってね、帝の腹違いのお兄様に当たる方。
ずうっと都を離れてらしたんだけど、何日か前に急に帝のもとを訪ねてらしたの。
えーとあれは、そうそう、この前佐為様が帝に指導碁をされた日よ」
数日前、明を待ちながら佐為に会った時。
もう指導碁は終わったのかと聞く己に佐為は何と云っていたか。
――帝のもとに、訪ねて参られた御方がありまして。
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