無題 第1部 16 - 20


(16)
「緒方さん、なんか今日、運転荒いですよ。やっぱり酔ってるんじゃないですかぁ?」
後ろから声をかけてくる芦原がいつに無く腹立たしく感じられた。
「オレは緒方さんと心中なんてイヤですからね。」
誰のせいで不機嫌で、運転が荒くなっていると思っているんだ。
苛ついて無言を返してやっていたら、今度は助手席のアキラに話し掛けはじめた。
全くおしゃべりな奴だ、と緒方は思う。
「芦原、おしゃべりもいい加減にしろ。ここに捨てていかれたいのか?」
怒気をはらんだ緒方の声を無視して、芦原は続ける。
「緒方さん、酒に強いように見えて、時々飲まれるからねぇ。
前にも、えーと、いつだったっけ?酔っ払って進藤君にからんだあげく負けちゃってさ。」
「芦原…?」
「お前、なんでその事を知っているんだ…?」
はっとして芦原が口を噤む。
「お前、寝てたんじゃなかったのか?」
「いや、えーと、寝てたんだけど、時々声が聞こえてて…」
「負けた…って、緒方さんが進藤にですか!?」
「あ、いやいや、負けたって言っても、緒方さんも相当酔ってたから、ね、緒方さん?」
「思い出したくもない話だな。」
不機嫌さを隠そうともせずに、緒方はそう言った。


(17)
思い出したくも無い、しかし忘れたくても忘れられない一局だった。
つまらないミスで負けたのは確かだったが、しかし、もしあれが通常の状態だったら、
どんな勝負になっていたか。自分が確実に勝てていただろう、という自信は無い。
「でも、いくら緒方さんが酔われてたからって、進藤が勝つなんて…一体、どんな碁
だったんですか?」
オレがこの話を打ち切りたいと思っているのにコイツは全然気付いていない、と内心
毒づきながら緒方がこたえる。
「フン、オレのポカミスだな。
酒の上でのつまらん勝負だ。それでもキミは内容が知りたいのか?」
いつまでもからんでくるアキラの態度が不愉快だった。
「そんなに進藤の事が気にかかるのか、アキラくん?
キミはオレが負けた、という事よりも、進藤がオレに勝った事が気になるんだろう?」
不愉快なのは、負け勝負の事をいつまでも聞いてくる事では無く、自分のことよりも進藤
の事を気にかけるアキラの態度だ。
「まったく、キミは進藤の事となると人が変わるな、アキラくん?
一体、キミにとって進藤とは何者だ?宿命のライバルか?ハッ」
何がこんなに苛つくのかわからない。その事が余計に緒方を苛立たせた。
進藤ヒカルに関しては、緒方のほうからアキラに対してけしかけていた事もあったのに、
なぜ今日はこんなに苛つくのだろう。
酒のせいだ。嫌な酔い方をした。
緒方は、そう思う事にした。


(18)
いつものように、いつもの碁会所に顔を出した。
愛想のいい市河への挨拶もそこそこに、室内を見渡す。
目的の人物はすぐに見つかった。今日はいつもの奥の指定席ではなく、窓際の席で、三人を相手
に指導碁を打っているようだった。
ゆっくりと回り込んで、アキラの向かいに立ち、碁盤と、そして打っているアキラの顔を眺めた。
その顔は、「プロ棋士・塔矢アキラ」の顔だ。
大人に囲まれて育ってきたせいか、アキラは昔から大人びた子供だった。まだ小学生の頃から囲碁
に関しては別格扱いをされ、同じ年代の子供たちの中からはいち早く抜け出して、臆する事もなく大人
の世界へ入ってきた。そしてプロになった今では、親世代の年上の人間に「先生」と呼ばれ、それを
当然と受け止めて、にこやかな顔を崩さずに、「指導」する。
なぜか突然、そのお行儀の良い営業用の笑顔を剥ぎ取ってやりたい、という凶暴な思いにかられた。
そんな暴力的な空気が伝わったのか、それともたまたまなのか、アキラが顔をあげ、そこにいた緒方
に気付くと、軽く緒方に微笑みかけ、そしてまた碁盤に目を落とした。
その微笑みは緒方が昔から良く知っている、幼い時のあどけない天使のような笑顔のままだった。
緒方は、自分が良く知っているアキラと知らないアキラ、昔のままのアキラと現在のアキラの間で
幻惑されたような気分がした。目眩がする。
頭をふって、緒方はその場を離れた。


(19)
「緒方さん、よろしかったら一局打って頂けますか?」
奥で棋譜を並べていた緒方に、アキラが声をかけた。
見上げると、先程と同じ変わらぬ笑みを浮かべている。
コイツの笑顔は目に毒だ、と緒方は思う。眉をひそめたのを、アキラは誤解したようだ。
「お忙しいようでしたら、無理にとは言いませんけど…」
前にも思った。こうして、少し済まなそうな顔をしたアキラはなぜかいつもよりも随分と幼く見える。
そういうアキラはやっぱり可愛いと思う。緒方は、自然に笑みをその顔に浮かべ、
「構わないよ。どうぞ、座って。」
と向かいの椅子を勧めた。

だが、その対局には失望させられた。
気迫が感じられない。おまえの持っている力は、そんなものじゃないだろう?と問い詰めたくなる。
誰を相手に打っているつもりだ?と。
以前からも時々対局中に他の事を考えているように見えた事もあったが、少なくとも自分に対して
はそんな事はないと思っていた。
「上の空だな、アキラくん」
「え…?」
突然そんな風に責められるわけがわからず、アキラは小さく首をかしげて緒方を見る。
さっきまでたまらなく愛おしいと思ったのに、急に、首を絞めてやりたいくらい憎らしく感じる。
「一体、オレと対局しながら何を考えていたんだ?」
「ボクは…そんなつもりは…」
「そんなつもりはなくて、こんなぬるい手を打ってきたのか?」
アキラの意図を見越して、けれどそのスキをつくように緒方の石が置かれる。
「あっ…!」
見落としていた一石にアキラが小さな声をあげる。
「本当はオレと打ちたかった訳じゃないんだろう、キミは?昨日芦原に聞いた話を、その事を聞きたい
んじゃないのか?それともオレを通して進藤の力を図ろうとでも思ったのか…?」


(20)
だが、そんな緒方の言葉が耳に届いているのか、アキラは一挙に情勢が厳しくなった碁盤を見詰め
ている。次第にその額に汗が浮かびあがってくる。
「くっ…」
必死の一手を返してきたが、それは緒方の読み通りのものだった。
「フン、軽くみられたもんだな、オレも。」
ピシリ、と更に厳しい音を立てて石が置かれる。
「オレが進藤に負けた一局が知りたいか…?それならこの劣勢をひっくり返してオレに勝ってみせろ。」
緒方の白石は容赦無く黒地を責め立てた。
「ふざけるのもいい加減にしろ。宿命のライバルだかなんだか知らないが、キミの敵はそれだけだと
でも思っているのか?」

「…ありません。」
がむしゃらの反撃も空しく、アキラは投了した。
力無く頭を垂れているアキラを見下ろしていると、先程までの怒りが急速に薄れて、頼りなげなその
頭を優しく撫でてやりたいような衝動にかられる。
が、その反面、甘やかしは無用だ、という厳しい思いも浮かんでくる。
「対局中は、他の事など考えるな。キミは時々集中力が足りん。
大体、対局相手に失礼だ。そう思わないか?」
緒方の言葉に、アキラが小さくうなずいた。
うなだれているアキラに、なぜかこんな言葉をかけてしまった。
「進藤の碁が知りたいか…?それなら、今からうちに来い。」
オレは一体どんなつもりでこんな事を言っているんだ?



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