無題 第2部 16 - 20
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イベントの間は、昼食の時も、ヒカルと話をする事はなかった。アキラはほとんどずっと主催者達
と一緒にいたし、逆にヒカルは若手―つまりは一般的にはまだ子供の―棋士達の輪の中にいた。
イベントが終わって、真っ直ぐ帰ろうとしたアキラの元に、ヒカルが駆け寄ってきて声をかけた。
「塔矢、久しぶりだな、挨拶くらいしろよ。」
明るく屈託のない笑顔がなんだか眩しく見えて、アキラは目をしばたかせた。
「この間、風邪ひいて手合い休んだんだって?ちょっと痩せたんじゃないか?」
だが、そんなアキラに気付きもせず明るく話し掛けてくる進藤に、無理に笑みをつくって応えた。
「そうかな。もう何ともないんだけど。」
「そう言えばさ、塔矢先生中国に行ってるんだって?もうずっと?長いの?」
「うん、母も一緒に行ってるよ。時々は帰ってくるけど。」
「そっか、じゃあ、塔矢、今一人なんだ。それって寂しいよな。」
何故だか急に、ヒカルは沈んだ様子になった。
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「…一人は、嫌だよな。」
ポツリと、独り言のようにヒカルがこぼした。
そう言った時の顔は、本当に寂しそうで、悲しそうで、アキラは思わず、抱き寄せて頭を撫でて
慰めてやりたいような衝動に駆られた。とは言っても実際は黙って見ていただけなのだけれど。
普段、やんちゃで明るくて元気なだけに、余計にその表情のギャップに驚いたのかもしれない。
心配されてたのはこっちなのに、なんだか変だな、とアキラは思った。
だがすぐにヒカルはその沈んだ空気を断ち切って、明るく言った。
「それじゃ…あのさ、今日、和谷んちで鍋やるって言うんだ。塔矢も来ないか?」
「和谷…?」
「オマエ、和谷の事も覚えてねーの?オレの同期でさ、アイツ一人暮らししてるから、今日は
井角さんとかみんなで鍋やろう、って行ってたんだ。塔矢んちも誰もいないんなら、ちょうど
よかったよな。来るだろ?」
和谷と言うのは彼の事か、と思う。よく進藤と一緒にいる少年。だが彼は、自分が来る事を
喜ばないのではないか、そんな気がする。
そんなアキラの懸念に気付きもせず、ヒカルは見覚えのある少年の方へ駈けていった。
心の中の重苦しいものをもてあましながらも、そんなヒカルの元気いっぱいの様子を見ると
少しだけ、気分が軽くなるような気がした。
まるで、子犬みたいだ。可愛いな、とアキラは思った。
進藤はまるで、いつも元気にあちこち駆け回り、嬉しい時は思い切りしっぽを振って喜ぶ、そんな
子犬みたいで、そうしているのが一番彼らしい、とアキラは思う。
素直で明るくて屈託がない、その少年らしさはきっと自分には無い物だ。
だからアイツは誰にでも好かれるんだろうな、とアキラは思った。プロ棋士を始めとする囲碁界
の関係者も、最初は「しょうがないヤツだな」と言いながら、結局は誰もが彼を可愛がってる。
アキラは、そんなヒカルが少し羨ましいと感じた。
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「和谷、今日、塔矢もくるってさ、いいだろ?」
「えぇっ?塔矢ぁ?」
しかし、アキラの予想通り、彼は露骨に嫌な顔をした。やっぱり、とアキラは思った。
「いいよ、進藤。ボクは遠慮しとくよ。急に人が増えたんじゃ、和谷くんだって迷惑だろうし…」
「えーっ!?いいじゃん、人数なんか、鍋なんだしさ、いいだろ?和谷?」
しかし、和谷の方はとても「いい」なんて顔はしていない。
「今日はボク留守番してなきゃならないし、また次の機会に御一緒させてもらうよ。」
ヒカルがまだ納得していない風なのを、そういって押し切った。
「次の機会なんてねーよ。」
だが、和谷が小さな声でそんな風に毒づいたのが、アキラにも聞こえた。きっと進藤にも聞こ
えただろう。が、あえて聞こえないふりをして、進藤や他の人達にも挨拶してその場を去った。
「なんだよ、和谷ってばさ、そんなに塔矢の事嫌わなくてもいいじゃん?アイツ、ああ見えても
イイ奴だぜ?」
「うるさいなぁ、オマエもよくあんないけ好かないヤツと友達してるよな。
でも、オレはアイツは嫌いなんだから、少なくともオレと一緒の時は、あんな奴誘うなよ。
オレは絶対イヤだからな!」
去っていくアキラの背に、そんな言葉が聞こえてきた。
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せっかく誘ってくれたのに、イヤな思いをさせて申し訳なかったな、とアキラは思った。
他の人間に疎まれるのはいいとしても、間に入った進藤には悪い事をした。
殺風景なアパートに帰り、コンビニで買ってきた弁当を温めて食べながら、アキラはふと、
ヒカルたちがどうしているだろうと思いを馳せた。
―きっと、楽しそうに鍋をつついているんだろうな。
勝手に鍋を荒らして年嵩の少年(多分、彼が伊角だ)にたしなめられているヒカルの様子が、
容易に想像できた。
―それとも、案外、鍋奉行になって仕切るタイプかな。
「ダメだよ、まだそこ煮えてねーよ」
「かき回すなよ、不味くなるじゃねーか」、なーんてね。
そんな姿を想像して、アキラはクスクス笑った。
だが自分の笑い声がガランとした部屋に響いて、アキラはまた空しくなった。
急に、和谷という少年の自分を見る時の険のある目つきが思い出されて、アキラは大きな溜息
をついた。普段なら誰がどんな目で自分を見ていようとあまり気にした事などなかったのに、
なぜか彼の険悪な目つきが急に気になった。
―嫌われるような事をした覚えはないんだけどな。
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どうしてなんだろう、とアキラは思った。
時々、そうやって自分に対して敵意をむき出しにしてくる人間がいる。
自分としては普通に接しているつもりなのに、理由も無く嫌われる。
子供の頃通った囲碁教室でも、海王中囲碁部でも、今現在、若手プロ棋士達の中でも。
同じ年頃の人間ばかりでなく、日々対戦する棋士達にもまた、そういう人達はいた。
理不尽だ、とアキラは思った。そして、進藤なら、そんな風に嫌われる事はなのだろうとも。
和谷のように自分を嫌っている人間でも、進藤とはとても仲が良い。
―その上、あんなあからさまにボクを嫌う人間とでも、キミは仲良くやっていけるんだ。
根拠の無い怒りが、突然アキラの心にどす黒く広がった。
―キミは、いつもそうだ。
いつも、そうだ。ボクには背を向けるくせに、他の人とは楽しそうに話している。
ボクには入っていけない輪の中で、キミはいつも楽しそうに笑っている。
ボクが独りでどんな思いをしてるかなんて、キミは気付きゃしないんだ。
誰だって、キミを好きになる。キミの無邪気さに、屈託のなさに、明るく元気で罪の無い笑顔に、
何をされたって、結局はキミを許してしまう。ボクだって…ボクだって結局はそうだ。
キミが持っているのは、ボクには無いものばかり。
キミは知らないだろう。ボクがどんなにキミを羨ましいと思っているか。
こんなのはただの八つ当たりだ、と心の片隅で思う。けれど、打ち消そうと思っても、涌いてくる
怒りを、アキラは止める事ができなかった。
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