Shangri-La 16 - 20
(16)
ずっと母親に付き添っていたヒカルが自宅へ帰ったのは、
母親が入院した日から2週間後のことだった。
非常事態で体のサイクルはすっかり狂ってしまって
そんなヒカルを見かねた父親が、無理に付き添いを代わった。
ヒカルは鈍い足取りで帰宅の途についた。
一方その日、アキラの両親が帰国した。
アキラは碁会所で父と待ち合わせ、土産話を皆で一通り聞いた後
父と碁会所を出たところで、夕闇の雑踏の中に見慣れた人影を認めた。
「進藤!」
声をかけたが、少し遠かった所為か気づかない様子だった。
「進藤君か?」
「うん、お父さん、ボク進藤と話が…。ごめんなさい、先帰ってて。」
アキラは父と話すのももどかしく、ヒカルを追いかけた。
ヒカルがコンビニに入ったのが見えた。良かった、これで追いつける。
アキラがコンビニまでたどり着いたその時、ヒカルが店から出てきた。
ヒカルは目の前のアキラに気がつかず、通り過ぎようとする。
「進藤!」
「あれ、塔矢…?」
「無視するってひどいじゃないか!」
「…あ、ごめん…気づいてなかった…」
「だいたい君は何を考えてるんだ?仕事はサボってるし電話は出ないし
電話に出たと思えば勝手に切るし…一体何なんだ?」
言うだけ言って、アキラはヒカルを睨みつけた。
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コンビニのまばゆい白色光が照らしたヒカルは、こころもち痩せて
白すぎるほどに白い顔には精気がなく、目は死んだ魚のようで
造花を見た思いがして、アキラは思わず息を飲んだ。
「え?あ、あぁ…ごめん…」
ヒカルの返事には力がなく、うわのそらだった。
目の前にいてもなお関心を持たれていない事でアキラの怒りは増幅された。
「とにかく、説明してもらおうか。」
アキラはヒカルの腕を力いっぱいつかんで、ずんずんと歩いた。
ヒカルを近所の公園へ連れて行き、ヒカルをベンチへ放り込むと
自分もその隣に腰掛けた。
ヒカルは、痛ぇ、とつぶやいて、座り直しながら、
アキラに捕まれた腕をさすっていた。
「で、どう説明してくれる?」
怒りで興奮しているアキラの隣で、ヒカルは言葉を探していた。
いつかは話さなくてはいけないと分かっていて先延ばしにした。
でも、いざ話そうと思うと、何から話せばよいのか分からない。
考えがまとめられないほど自分が疲れていることに、
ヒカルは初めて気がついた。
「説明って言われても…、なにが、聞きたい?
塔矢が知りたいことなら、何でも話すから…」
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「――だったら、なぜこの間電話したときに話してくれなかった?
しかも黙って一方的に切るなんて…!」
「あぁ…、なんかオレ、あの時塔矢の声聞くの、疲れて…」
「ボクと話すのが嫌だったのか?」
「あ、いや、なんかすごい勢いだったし、怖くて…
心配してくれてるのは嬉しかったんだけど…。ごめんな。」
「…ボクが、こわかった?」
「うん、なんか、塔矢のテンションが」
自分を「怖い」と評されたことで、アキラは、
次の質問を持ちだすことが出来なくなってしまった。
二人はしばらく無言でいた。
「そういや、オレの代わりにイベント行ってくれたって言ったよな?
ありがとな。あれ、直前だったし、悪かったな」
「え、あ、あぁ。それより、何で休んだ?一ヶ月も休むって聞いたけど」
ヒカルは足下の地面を見つめた。話が大きくなるのが怖かったが
何て言ったら良いのか、やっぱり分からない。
「うん、あのさ…。母さんがさ、入院して…」
アキラは驚きのあまり、大きな動作でヒカルに向き直った。
ヒカルは表情を堅くした。
「どうしたんだ?大丈夫なのか?」
「ん…、ちょっと、怪我してさ…。まぁ、今は意識もあるし」
ヒカルはアキラを安心させようと笑顔を作ろうとしたが叶わず
表情が少し歪んだだけだった。
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「なんでもっと早く教えてくれなかった?」
少しずつ、アキラの声に力が篭る。
「あ、え…ごめん…。ちょっと塔矢…、怖い――」
ヒカルの目は畏怖で見開かれていた。アキラは指摘されて初めて、
ヒカルにつかみ掛からんばかりの自分に気づき、改めて座り直した。
「――すまない。でもなぜ、教えてくれなかった。」
「ごめん…誰とも合いたくなかったし、誰とも話したくなかったんだ…」
そう答えるヒカルは酷く疲れていて、何十歳も歳を取ったようだった。
アキラは心臓が搾られる思いだった。そんなヒカルを見るのが辛かった。
ヒカルをそっとなだめるように、出来るだけ優しく声をかける。
「で、お母さんの具合は?」
「うん――手術して、今は普通の病室にいるけど、殆ど寝てて
あんまり話とかはしなくって、でもまだあと一回手術あるし…」
「――そうか…。随分ひどい怪我だったんだ?」
「うん…」
「それより進藤は、大丈夫なのか?」
「え、オレ?――うん、別に普通だけど…?」
「そうかな?顔色も悪いし、普通には見えないよ。」
「そんなことないよ。オレは元気だって」
「いや…、なんかすごく疲れてるように見えるけど」
「疲れてなんかないって!最近は感覚もすげー冴えてるし!
そーだ、今お前と打ったら絶対負けないって。そんくらい冴えてるから」
ヒカルの瞳に、光が宿っている。いつもとは全く違う、嫌な色だった。
「――それ、ホント?おかしくない?」
「本当だって!疑うなら、今から一局打とうぜ。碁会所でどうだ?」
「今日はもう閉めたよ。お父さんが帰ってきたから、今日は早じまいしたんだ」
「そうか…」
ヒカルは少し考えて、じゃあ家来いよ、とアキラを誘った。
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ヒカルは、焦っていた。
冴えていると思っていた頭には、なぜか蜘蛛の巣が張っていて
深い霧の中を彷徨しているように、方向が定まらないまま
ただ石を置くことしか出来なかった。
アキラはアキラで、あまりの酷さに目を覆った。
今日のヒカルの手筋は見るも無残で、首をかしげながら置いていく石の並びは
冴えているとはほど遠い状態だった。
「ねぇ進藤、まだ、打つの?」
アキラの問い掛けには答えず、ヒカルは黙って石を置いた。
これ以上、どう足掻いてもひっくり返るはずがないのに
今のヒカルにはそれすらも分からないようだった。
「無理だよ。それでボクがここに置いたら?」
アキラはとどめを刺した。
ヒカルはしばらく考え込んで、ありません、とつぶやいた。
「進藤、本当に大丈夫?」
ヒカルは黙っていた。改めて盤面を見ると、今日の碁はひどいと思う。
なぜか頭がひどく重かった。
「検討、する?」
「いや…いいよ。なんかひでぇな、オレ」
「――そうだね…。」アキラは溜息をついた。
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