Trick or Treat! 16 - 20
(16)
リビングに戻ると、こちらに背を向けたアキラが
窓辺に居場所をもらった小さなカボチャをよしよしと撫でているところだった。
「気に入ったか」
「はい」
アキラは振り向いて微笑み、ぱたぱたとキッチンへ向かった。
「何か作っていたところだったのか?」
「カボチャと、きのこと、鶏肉のシチューです」
鍋を重たそうに掻き回しながらアキラが言った。
料理に関しては、緒方は酒のつまみか炒飯くらいしか作れない。
一人の時は買ってきた物と外食と出前でどうにかなっていたが、
それでは栄養が偏るからとアキラが調理器具を買い揃えて自炊を始めた。
芦原弘幸のお料理教室などと称しては月に一、二度芦原が上がり込んでいくのは
気に食わないが、家で誰かの手料理が食べられるというのはいいものだ。
自分も料理教室に参加するようにと芦原から再三勧誘されているが、この朗らかな
弟弟子に「教えてもらう」という立場になるのが何となく癪で延ばし延ばしにしている。
「・・・カボチャを入れたのか。ハロウィンだから?」
「いえ、何となく甘いものが食べたくて。緒方さん、苦手でしたか?」
「いや・・・」
鍋からもうもうと上がるシチューの湯気の中に、
甘い毒を混ぜたようなカボチャの香りが妖しく立ち込めている。
甘い菓子のような匂いを嗅ぎつけて、そろそろお化けが集まってくる頃合いだろう。
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「・・・かなり、甘くなっちゃったかなぁ」
鍋の中身を小皿に取って味見をし、上唇についた分をアキラはちろりと舐めた。
「甘いのか」
「ええ。チーズでも、入れてみようかな・・・」
「料理の話じゃない」
「え?」
アキラは怪訝な顔をしたが、緒方が笑みを含んで唇を指してやると
呆れたように肩を竦めてくるりと鍋のほうに向き直った。
「おいおい」
「今は、今日美味しいお夕飯が食べられるかどうかの瀬戸際なんです。
邪魔をするなら向こうへ行っててください」
「・・・・・・」
緒方は黙って手を後ろに組み、所在無げにアキラの横に立った。
アキラは無視してチーズを探し始める。
「・・・ここだ」
「・・・ありがとうございます」
軽く頭を下げて黄色い塊を両手で受け取ったアキラに、ふと思いついて聞いた。
「アキラくん。・・・オレたちが初めてキスしたのは、いつだったかな?」
アキラは「は?」というような顔で緒方を見ると、すぐにチーズの包装を開け
ナイフとカッティングボードを並べながら、
「ボクが中3の冬ですよ」
と答えた。
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「・・・いつだって?」
「中3の冬です。緒方さん、憶えてらっしゃらないんですね」
アキラは緒方を見ないまま、チーズにぐっとナイフを突き立てた。
「そんなに後だったかな。もっと、早かったんじゃないか」
「いいえ、あれが初めてですよ。ボクとセックスするようになっても、緒方さん、
長いことキスはしてくださらなかったじゃありませんか」
アキラの声が強張り始める。チーズの大きな塊が音を立てて本体から切り離された。
「・・・・・・」
忘れているのはどっちだと思う。
確かにあの時アキラはまだ子供だった。「お化け」のアキラにとってあのキスは、
従わない者を懲らしめるための単なる悪戯だった。
だからアキラが憶えていなくても仕方がないと頭では思う。
だが、だからと言ってこんな責めるような口調をされるのは心外だった。
――あの時オレがどれだけ驚いたと思ってる?
「おい」
「あの時期、どういうおつもりでボクとセックスなんかしてらしたんですか?
キスしなかったのは、セックスだけで、キスしてやる必要なんてない相手だった
からですか?ボクがあの時期、どれだけ――」
何か甦ってきたらしく、アキラは声を詰まらせ眉間に力を込めて口を噤んでしまった。
鍋がグツグツ言う音と共に重苦しい沈黙が流れる。
アキラを抱くようになってからも暫くの間、唇へのキスを避けていたのは事実だった。
その行動がアキラにとっては不安を呼び起こすものであったらしい。
だが緒方としても別に、したくないとかしてやる必要がないとかいう考えで
キスを避けていたわけではないのだ。
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「あれは――おまえがそのうち彼女でも作って、そっちとキスするようになると
思ってたからさ」
「・・・何ですか。それ」
アキラはますます表情を硬くして、チーズをガシガシと卸し始める。
さぞや自分勝手な言い分に響くだろう。
だが、実際それがあの頃の自分の気持ちだったのだ。
甘い匂いのする小さな唇が自分の唇に触れた日の夜、アキラの母である人が
自分に言った言葉がずっと胸の奥に蟠っていた。
――アキラはやがて好ましい異性を見つけて、その本当に好きだと思う相手と
本物のファーストキスをするのだと。
それは実に尤もだと思った。
それに、乱れた世相の中で大人に肉体を売るようになった少女たちが、
金のために体は許してもキスは許さないといった話も耳にしたことがあった。
他の全てを奪っても、そこは自分などが侵してはならない部分だと
自分に言い聞かせていたのだ。
そこを触れずにおくことによって、まだ自分は理性を残した大人であり、
アキラから全てを奪い去ったわけではないと逃げ道を作りたかったのだ。
――一日も早く、丸ごと奪って全部自分のものにしてやればよかった。
沈黙の中、強張っていたアキラの横顔が少し緩んで哀しそうな顔になる。
パサパサとチーズを鍋の中に放り込み、目尻をほんの少し濡らしながら
おとなしくシチューを掻き混ぜるアキラがいとおしかった。
だがそれと同時に、昔自分自身がしたことはすっかり棚に上げて緒方一人が悪いような
顔をしているアキラに「それはないだろう」と思った。
何やかやの気持ちが混じり合ってむらむら込み上げてくるものがあり、
少し思案してから、緒方はアキラの顔を覗き込んで呪文を唱えた。
「・・・Trick or Treat!」
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「・・・えっ?」
アキラが怪訝そうに振り向く。もう一度繰り返した。
「Trick or Treat!」
「何ですって?」
「お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ」
唐突に妙なことを言い出した緒方にアキラが面食らった顔で答えた。
「・・・お菓子なんて、持っていませんよ」
「だろうな」
緒方は不敵に笑ってアキラの顎を持ち上げ、瞳の中を覗き込んだ。
「なら、おまえを寄越せ」
「・・・ふざけてるんですか?」
「くれないのか?」
「駄目ですよ。お鍋ついてなきゃ、焦がしちゃう」
「そうか。くれないなら・・・」
緒方は焜炉の火を止め、アキラの身体に腕を回すとそのまま抱き上げた。
「おまえに、悪戯する」
「ちょっ・・・緒方さん!?」
アキラがシチューを掻き混ぜていた杓子が手から落ちて床に当たった音がした。
大股で寝室まで運びベッドの上に投げ出すと、アキラが怒りを含んだ声で言った。
「・・・ボクをからかってるんですね?」
「からかってるように見えるか?」
「そうとしか見えません」
「心外だな」
さっさと覆い被さって唇を塞ぐと、そこにはまだ少し澱粉質の甘い味が残っていた。
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