裏階段 アキラ編 16 - 20
(16)
外を歩いても「あら、かわいいわね」と頭を撫でようとする御夫人の手をそれとなく
避けるアキラを見ていた。
甘えたいという要求が強い程に甘えたがっているという意識を周囲に、特に父親とオレに
気取られないよう彼は振る舞っているように見えた。
そんなある時、ある出来事が起こった。
その頃はオレはまだ眼鏡をかけてはいなかった。
視力は元々良くはなかったがかけないからと言って支障を感じる程ではなかった。
ただやはり日差しが苦手で無意識の内に目を細めて物を見るクセがあり、
「セイジくん、目が悪いならかけた方が良いわよ。でないとますます悪くなるわ。」
やはり見ていて気になるのか明子夫人に何度か言われて面倒だと思ったが眼鏡を作った。
そうして眼鏡をかけて塔矢家に行ったところ玄関に入ったアキラがオレを見るなり不機嫌な
顔になり、いつもそんなに騒ぐ訳ではないが妙に押し黙ったままその日の対局を見ていた。
その事を明子夫人に話したところ可笑しそうに笑われた。
「小学校でね、担任の男の先生に叱られたようなの。他のクラスのお友達に教材を貸してあげて、
でもその子が返しに来るのを忘れちゃって、アキラが皆の前で先生に頭を叩かれたらしくて…
あの子なりにプライドが傷ついたみたい。その先生が眼鏡をかけているのよ。」
「だが、頭を叩いた位で生徒に嫌われたら先生も大変だな。」
「反抗期なのかしら。最近お風呂にも一人で入るって言い張るようになって。」
男の子ならそんなもんでしょう、とその時は深く考えず明子夫人にそう答えた。
学校とは子供が社会に出て最初に理不尽な経験を学び積み重ねる場所だ。
事態が思ったより深刻であるとはその時は気がつかなかった。
別に意地悪なつもりではなかったがその日からオレはずっと眼鏡をかけるようになった。
ある意味アキラと距離感を持つ良い機会だと思ったのだ。彼の保護者となるつもりはなかった。
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スーツの上を脱いで椅子の背に放り、ネクタイを緩めながら自分もバスルームに向かった。
ドアを開けると白い湯気の向こうで全裸で背を見せて立つアキラがいる。
髪を濡らさないように顔を上向き加減にしてシャワーを浴び、細身の体に行く筋もの雫の流れを纏っている。
高い位置で盛り上がった臀部は引き締まって形の良い丸みを帯び、膝の出ていない真直ぐな
足のラインが伸びている。
美しく成長したものだ、とつくづく感心する。
神は何の気紛れでこの世にこういう人間を生み出すのだろう。
世の中には体のラインを武器に生き抜こうとする者達が多くいる。モデルや芸能界という
分野において。
彼等が喉から手が出る程に望み、日々血が滲む程に努力して維持しているであろう完璧な骨格を
この少年は生まれながらにして手にしているのだ。
こちらの視線に気がつくと、アキラはシャワーを止めてニコリと笑った。
「そこのバスタオルをとっていただけますか。」
幼いアキラを何度か風呂に入れてやったこともあった。比較的手がかからない子供だったが
それでも保育園の頃のアキラはよく脱衣所に出したとたんに廊下に駆け出し、
こちらも慌てて裸で追い掛けたものだった。
小学校にあがると肩までちゃんと湯に沈め、のぼせそうな赤い顔でこちらが言った数字の分だけ
ちゃんと声を出して数えるようになった。
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眼鏡をかけるようになって、確かにアキラとの距離感が生まれた。
懐かれているという自惚れはないつもりだったがそれでも嫌われてはいないと思っていた。
それが明らかにこちらが眼鏡をかける事でアキラが避けるようになったのだ。
それでも気がつくとアキラはこちらを見つめている。
何かを訴えるような、抗議するような視線だった。
ある時いつもはがんばって夜遅くまで門下生らの研究会に参加していたアキラが、
「眠い」といって早々に自分の部屋に引き戻った。
さすがに少し気になって研究会を抜け出しアキラの部屋を覗いた。
そしてドキリとした。
アキラは寝巻きには着替えていたが敷いてある布団に入らず、壁に向かって座っていた。
「アキラくん?」
声を掛けたら一瞬肩をビクリと震わせたが、膝の上で両手を握りしめ、振り向かなかった。
よほどこの眼鏡がお気に召さないのかな、とため息をついて廊下を戻ろうとした。
その時、アキラの小さな肩が震えているのに気がついた。
とりあえず眼鏡を外して胸ポケットにしまい、もう一度声をかけてみた。
「悪かった、アキラくん。…こっちを向いてごらん。」
アキラがチラリとこちらを向き、ホッとしたような表情を見せた。
こちらも畳に膝をついて座り、両手を出して「おいで」という意思表示を示した。
アキラは黙ったまますり寄って来ると、膝の上に座って抱き着いて来た。
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子供が持つ独特の甘い香りがふわりと匂う。
背中に羽根でも生えているようなアキラの軽い体重が膝に掛かる。
何の事はない。アキラに距離感を取られて我慢出来なかったのはこちらの方だったのだ。
子供のように意地を張って眼鏡を外さなかった事を後悔した。
それでもアキラはまだ少し震えているようだったので軽く抱きしめて頭を撫でてやった。
ふとその時、嫌な予感が頭の片隅をよぎった。
―何か学校であったのだろうか。
「また学校の先生に叱られたのかい?」
そう尋ねた時、アキラの全身が強張るのを感じた。アキラは左手をこちらの首に回し、
右手の親指の爪を噛みながら顔を胸に臥せている。
―まさか…
あやすようにそんなアキラの背中をさすり、寝巻きの襟元を開いた。
アキラが少し怯えたように肩を竦める。
「何もしない、見るだけだ。…いいかい?」
アキラは黙ってコクリと頷いた。
何故そう思ったのか、そんな気がしたのか判らない。そういう経験をした者だけが感じる
嗅覚というものかもしれない。
アキラの胸元に近い首筋にその印はあった。殆ど消えかかってはいたが間違いなく
何度も自分の体に焼きつけられた見覚えのある痕跡だった。
寝巻きのボタンを外す指が震えた。腕の中でアキラはただ黙ってじっとしている。
さらに寝巻きを開いていくと胸元に新たな印が一つと腹部に殴られたようなアザがあった。
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「お父さんとお母さんには、言っちゃダメなんだ…。」
ポツリとアキラが小声で呟く。
「先生がそう言ったのか。」
コクリとアキラが頷き、心配そうにオレの顔を見る。
「大丈夫。言わないよ。」
直ぐにボタンをはめて寝巻きの前を閉じると、アキラを抱きかかえて布団の中に寝かせ、
ポンポンと上から軽く叩いてやった。
幼い胸の中に抱えていた秘密を吐き出した事で気が楽になったのか、すぐにアキラは
小さな寝息を立てて眠りについた。
その寝顔を見ながら、オレは怒りで震えが止まらない両手を膝の上で握りしめた。
夜のアパートの駐車場で見つけたその相手は、ひどく貧相で弱々しく見えた。
身長こそ同じ位あったが、神経質そうに痩せこけた頬をして、そして眼鏡をかけていた。
自分の車から降りて部屋に戻ろうとするその男に声をかける事無く近寄って行った。
安っぽい黒鞄を抱えて、その男はぎょっとしたようにこちらを見た。
「な、何か用でしょうか。」
おどおどと、上目遣いに後ずさりしながらこちらを見る。
こんな人間でも教室の中では王者だ。社会的に何の権限もない力もない者が、教師と言う
仮面を与えられた時から自分の担当するクラスの子供たちの支配者となる。
「…貴様に教師の資格などない。」
一瞬、相手が動揺した顔つきになった。
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