裏階段 ヒカル編 16 - 20


(16)
やがて碁会所に戻って来たアキラの表情には、以前中学の囲碁大会の後にオレのマンションに
やって来た時のものとほぼ同質の疲労感が滲み出ていた。
その様子を見ただけで進藤とどういう会話が取り交わされたのか見当がついた。
単に強い者が居ると聞いただけで彼はsaiと対局したわけではない。
何かを期待して今一度進藤に会い、それがまた裏切られたのだろう。
市河や他の常連客に何やら声を掛けられても上の空といった感じで碁会所の中を横切り
奥のいつもの場所に腰掛ける。
碁盤の上の碁笥の一つを両手で包むように持ち溜め息をつく。
そしてようやくこちらの存在に気付いたようだった。
「緒方さん、いらしていたんですか。」
アキラは笑顔を浮かべて直ぐに立ち上がりこちらに来ようとした。

それを拒むようにしてオレも席を立ち、そのまま出口に向かった。
「緒方さん…!」
アキラの呼び掛けに応えず市河に怪訝そうな表情をされるのにも構わずに碁会所を出た。


(17)
その日はマンションに戻らず、少し前に行きつけていた店に久々に寄り、翌朝思いがけない部屋で
目を覚ました。
いや、正確にはその部屋もまた随分久しぶりに訪れた場所だった。
自分が寝ているベッドの隣を見て、その視界に入って来た黒髪に一瞬驚く。
こちらに背を向けて横たわっている黒髪の持ち主は、掛け布団の上に出ている背中や肩のラインは
成熟した大人の女性のものであって彼ではない。
当然のシチュエーションとして2人とも何も身につけてはいなかった。
体を起こして朦朧とする頭で夕べの記憶を辿ろうと試みる。
すぐ横を見ると白い華奢なデザインの脚がついたサイドテーブルに灰皿と
ライターと煙草が置いてあった。
スーツはきれいに整えられてハンガーに掛けられ、眼鏡は部屋の中央のテーブルの上にあった。
煙草を咥えて火を点け、ゆっくりと見回す。
「何も替えていないでしょ、カーテンも家具も。…あなたが選んだものと。」
背を向けていた黒髪の持ち主がゆっくりと振り向き、体をこちらに向けた。
そうだったかな、と心の中で呟き、さらに記憶を遡って辿ってみた。
彼女の買い物につき合い、「あれとこれ、どちらがいいかしら、こっちがいいわよね、ね?」
そう聞いて来る彼女に適当に返事をしただけだったような気がする。


(18)
店の片隅でグラスを傾けていると、すぐ傍らに来て立つ女性がいた。それが彼女だった。
突然何の電話も連絡も取らなくなった男に対し、その事を責める訳でもなく彼女は隣に座り、
ぽつりぽつりと自分の近況を話した。
転職したことや、お見合いもしたが結局断った事まで教えられた。
「いつかはあなたがここに来るような気がしたの。」
素直にそれは嬉しいと感じた。こんなオレにもそういう存在がまだ居るというのが不思議だった。
「とっくに見放されたと思っていたよ。」
「…あせらない事にしたの、あたし。」
彼女が店にほとんど毎夜のように通って来ていたという話を少し後にマスターから聞いた。

彼女が未だにアキラの事を疑っているのは間違いないだろう。
その事に一切触れようととしない態度でわかる。
悲しくて淋しい女だと思ったが、そんな彼女に縋りに来たオレはさらに惨めな存在だった。
手に入れたくて手に入らないもの、欲しくもないのに手放せないもの、せっかく手に入れながら
失おうとしているもの、それらの区別がつけられない。
それら全てがいつまでも永遠に、少し手を伸ばせば届く場所に漂っていて欲しい、と願っている。
「欲張りなのだろうか、オレは…」
煙草を咥えた口で呟く。
「子供なのよ。」
哀れむような視線でそう言うと彼女はガウンを纏ってシャワーを浴びにバスルームへ移動した。
煙草を灰皿に押し付けるとオレも後を追った。車を預けた場所を彼女から聞かねばならなかった。


(19)

バスルームからシャワーの音がする。
用を済ませた後で進藤が浴びているらしかった。
このままオレが目を閉じ、寝た振りをしていればそのまま進藤は服を着て音もなくこの部屋から
出て行ってしまうだろう。
気が向けば明日の夜も来るだろうし、もう来ないかもしれない。

『ボクを抱かないのなら、進藤も二度と抱かないで欲しい…!』
アキラに言われるまでもなくもう久しく進藤と会う機会がなかった。
とくに連絡を取り合う仲でもなかった。
皮肉な事にアキラにそう言われた直後にこの仕事が急に入ったのだ。
ただアキラが思っているようにオレと進藤の関係は対等ではなかった。
オレに釘を刺しても何の意味もないのだ。
オレと会うかどうか、寝るのか寝ないのか、全ては進藤が決める。
それにオレが従うだけなのだ。いつの間にかそういう事になっていた。


(20)
彼女の部屋から自分のマンションに戻って間もなくインターホンが鳴った。
アキラだった。
一瞬彼を部屋に入れるのを躊躇した。

「あたしも出掛けるから途中まで送って欲しい」という彼女を車に乗せたが、
車に乗り込むとすぐに彼女はオレの首に腕を廻して口づけてきた。
自分の容姿に自信があるのか、同年代の他の女性に比べると彼女はメイクに時間を
かけない方らしかった。何が基準かは知らなかったがかつて本人がそう言っていた。
それでも必要以上に甘く人工的に強められた滑らかさが唇に張り付いた。
彼女を下ろしてすぐに煙草を取り出した。
その彼女の香水の移り香が微かに服に残っているかもしれない。
首元かどこかに知らないうちにゆうべの再会の印を残されているかもしれない。

そんなふうに考えを巡らす自分に苦笑いし、ドアを開けてアキラを招き入れた。
部屋に入るなりアキラは、些末なものに気を廻す気配もなく言葉を切り出して来た。
「…すみませんでした。緒方さん…。」
「なぜ君が謝るんだ。」
アキラの方を振り返らず熱帯魚の水槽に向かう。
餌を与え、魚らが集まり舞いひらめく様子を眺める。



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