裏階段 三谷編 16 - 20
(16)
知覚が戻るのに多少は時間がかかったかもしれない。
水を吸った衣服の冷たさと重さを感じ始めたと同時に傍らに人がいる事に気がついた。
正確には自分に向かって真直に歩を進めて来る者の存在に、だった。
「コートを脱ぎなさい。」
伯母の金切り声の後で、その声はひどく穏やかで人間的なものに聞こえた。
だがその声の主の顔をなかなか視線を向けて見る事が出来なかった。
もしその時、伯父や、その周囲に居た伯父と同じ人種のような目がそこにあったらと
思ったからだった。その頃伯父は、オレを指導碁に同行させて相手に“紹介”する事が
あった。伯父が彼等から借金を重ねているのは容易に推測出来た。
躊躇している間に声の主の相手がこちらに手を伸ばし、かけ鞄を肩から外した。
それだけの動きで、強引でもなく強制でもないいたわりが伝わって来た。
相手は鞄を受け取りながら片手で自分のコートを脱ぐと、濡れたコートを脱いだ
こちらの肩にかけてくれた。年令の割に長身であったが、大人の背丈の上質そうな
コートの下端は濡れた埃まみれの地面に触れた。
意を決して顔をあげるとその相手は、騒ぎに顔を覗かせていた隣家の主婦に声を
かけるため後ろ姿を見せていた。
「すみませんが、タオルを貸していただけませんか。」
丁寧な物腰に主婦が一瞬顔を赤らめて頷いたように見えた。
そうして受け取ったタオルで水滴が落ちる毛先を包んでくれたその人の顔には
見覚えがあった。数回伯父と対局をしたことがあるプロ棋士の一人だった。
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「…どうしたの?」
そう聞かれてすぐには返事が出来なかった。色彩のないモノクロに近い過去の映像から
ゆっくりとベッドサイドの柔らかいオレンジの光の現実に引き戻されて行く。
体の下で彼が何を問いているのか分からなかった。ただ、ベッドが殆ど軋む音を立てない
程に緩やかなな動きを自分はしていた。快楽よりもただ人の温もりを望むように。
無意識に彼の手の5本の指のそれぞれの間に自分の指を差し入れて握りしめていた。
彼は、不思議そうにその組み合わさったものを見つめていた。
そしてオレは、もう一度あの日のあの場所で、あのプロ棋士が自分を見つめる深く
温かい目を思い出していた。全ての物が凍てつくように思えた瞬間の直後、あの
眼差しだけは温かかった。
プロ棋士の名は、塔矢行洋。今思えば伯父とは対極的なタイプの棋士であった。
猛火のごとく相手の陣地全てを焼き尽くそうとする伯父に対し塔矢プロは半目でも凌げば
善しとする、知的な戦術者であった。短時間で相手を組み伏せる事を望まず
辛抱強く時間をかけた深い対局を選んだ。記憶の限りでは伯父が勝者となる事はなかった。
「若いくせに年寄り臭い碁を打つ」
面と向かってそう毒づく伯父に対して塔矢プロはただ静かに頭を下げた。オレは初めて
人の打つ碁を“美しい”と感じ伯父に隠れて何度もその棋譜を眺めては盤上に並べた。
こちらが言葉を返さない事に半ば苛ついたようにして彼は組み合わさった手から
自分の指を外そうとした。外すまいと強く握りしめた。そうしてこちらが激しく
動きだし、その事に返って安心したように彼は吐息を漏らしながら自らも動いた。
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彼の中は十分に潤っていた。彼のせいではない。こちらの所業だ。記憶は断片を
辿りながらあの時点に行き着こうとしている。
「ああ、んっ、ハアッ…・ハアッ…ッ!」
強く、そして出来うる限り滑らかに柔らかく与えた。彼の白い胸が反り上がった
ところに顔を寄せて火傷の痕のない方の突起を唇で捉え吸った。
「う、…ん!」
組み合わさった指を固く握り返して来た。ファスナーを下ろした部分の辺りに
固くなった彼のペ二スが突き上がって来るのを感じる。
組み合わさっていた片手を外して彼のものに触れ、年頃にしては色も量も若干薄い
彼の体毛を梳いた。こんなところまで似ていると思った。
畳の上に碁石が飛び散った。凄まじい衝撃で壁に叩き付けられた。
棋譜を元に夢中で盤上に石を並べていて自分なりに次の一手を見い出そうとしていた。
伯父が見つけられなかった先を。音もなく襖が開いてすぐ背後に伯父が
来ている事に気がつかなかった。振り向いた瞬間に平手が飛んで来た。
説明も言い訳も二人の間に会話はなかった。伯父は着物を解いたヒモで
オレの両手首を床の間の柱に縛り付けた。あっというまに下肢からズボンと
下着とを剥かれ、床の上に仰向けになったところに伯父が馬乗りになって来た。
「…何をしていた。」
「…別に…ただ…棋譜を…」
まばらに生えそろえだした体毛に伯父は指を絡めてくると一気に何本かを引き毟った。
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その夜、伯父は人を人とも思わない扱いでオレを抱いた。
伯父が何に追い込まれていたのかオレは知らない。伯父にその理由を聞く事も出来なかった。
その最中に伯父が突然の心臓発作で倒れたからだ。
「お前は誰にも渡さん。あいつには…」
自分の胸を掻きむしりこちらの首を絞めようと手を伸ばして来た。だが首に絡み付いて来た
その指に力が入る事はなかった。
緩んでいたヒモからようやく手首を引き抜き、濡れた土嚢のように重い伯父の体の下から
這い出てしばらくぼんゃりと壁にもたれて動かぬ伯父を眺めていた。
元々不健康にどす黒かった皮膚がさらに人ではない色に落ちていった。
それまで自分が着ていたシャツは伯父の手によって断片化してしまっていたので抽き出しから
一番上にあった物を出してはおり、ズボンを履いてのろのろと部屋から出た。
伯母は昨日からどこかへ出ていってしまっていた。
電話をかけるというより誰か人に知らせなければと思っていた。
隣家に行こうと玄関から裸足で外に出たとき、これから訪ねようとしていた
その人が表通りから門を開けて入ってくるところだった。
「…どうかしたのか?」
人に向けられる人の目と人の声とは、こういうものなのかと思った。
葬儀の中で久しぶりに再開した実の父親でさえそれを与えてはくれなかったというのに。
「わたしのところへ来るかい?」
別室で一人で座っていた自分にかけられたその人の言葉を理解するのには少し時間がかかった。
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不思議だがあんな仕打ちを受けても伯父の死は悲しかったのだ。そして、身内ですら厄介払いが
出来たという表情を隠さない中であの人も悲しげな眼をしていた。その眼で語りかけて来た。
「わたしも弱輩ものだ。まだまだ分からないことが多すぎる。君に囲碁の何を教えてあげられるか
よく分からない。…共に学んでいこう。」
若手から中堅に差し掛かり数々のタイトルのリーグ入りの常連でありながら
本心からそんな言葉を、それこそどこの馬の骨ともしれない子供に与えられる人だった。
伯父が意識的に何度かその人を自宅に誘い、碁を打つ事を依頼していた事を後で知った。
自分の身に何かあった時に甥っこを託せる相手はその人だけだと確信し、引き合わせようと
していたものだったらしい。自らそう選択しながら自ら苦しんでいた。
伯父はそういう不器用な人間だった。囲碁において、人生において。
彼の体毛から指を離し、再度彼の両手首をベッドの上に組み敷き彼の中を突き上げる動きを速める。
「ハアッ…うああ…あ、ンああっ…!!」
彼の分身が充分に熱を持ち高まりきる寸前なのは分かっていた。激しく動き揺さぶり、彼の
奥部が精を吐き出そうとうねり内圧が上がる。その間際にこちらの動きを止めた。
「う…うっ!」
意図的にはぐらかされた事を悟った彼は、恨みがましい眼でこちらを睨んで来た。
ハアハアと互の呼吸音と視線だけの会話となる。彼は早くその瞬間を欲しいと望み、こちらは
今のこの状態をもう少し続けると伝える。しばらく睨み合った後、勝手にしろ、と彼は視線を
反らした。ただ無心に時を刻むように熱く鼓動が脈打つ彼の内部が、今は心地よかった。
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