指話 16 - 20


(16)
―まあいい、一人で飲んでいてもつまらなかったところだ。かと言って君に飲ますわけには
いかないが…。進藤の話だったな。
その人はキッチンに立ってポットに水を入れて火にかける。
戸棚からティーカップを一組だけ出した。自分用には新たにグラスを取り出している。
―すみません…、自分でやります…!
ハッとして慌てて鞄を置き、隣に立つ。タイトルホルダーにしてもらう事じゃない。
―君の家ではいつも煎れてもらっている。たまにはいいだろ。ティーパックで申しわけないが…。
ソファーに腰掛けるようにというふうに手を差し出され、頭を下げて座る。
視界に入るその部屋は、想像していた通りのものだった。
いつか自分が一人で自活を始める時の理想に近かった。シンプルで機能的な家具と
本に囲まれた空間。ただ、熱帯魚を飼うかどうかは考えていなかったが…。
その時、テーブルの上に散らばった本と新聞の間に例の週刊誌の表紙を見かけてドキッとした。
思わず見比べるようにその人の方を見てしまった。
―その様子だと、君も読んだんだな…。フフッ、まいったな。
テーブルにお茶とグラスを置くと、その人は雑誌を手にして目の前でページをめくる。
―詳しくは…読んでいません。
どうでもいい弁解を自分はしている。
―イベントから戻ったとたん棋院や後援会の長老達にいろいろ言われたよ…。今後はもう
こういう記事が出てこないか、念を押された。君は若手のお手本になるべき立場なの
だからってね。…大きなお世話だ。大体こっちはこの女の名前すら覚えていないんだ。
雑誌を放り出し、空のグラスを持ってサイドボードに向かった。


(17)
―もしかして、君もこの記事の事でオレに説教をしにやって来たのかな?
ぶんぶんと首を横に振った。ハハハッと、掠れた声で彼はおかしそうに笑う。
彼の今まであまり見た事のない表情や言動にボクは戸惑っていた。
新たな酒瓶の封を切ってグラスに注ぎ、一気にそれを呷ってまた注ぐ。
彼の一連の動きをボクは黙って見つめる。そうすることしか出来なかった。
―進藤の話だったな…。囲碁をやめるだって?
進藤の事に話が戻った事にホッとして、返事をする代わりに頷いてみせた。
―イベントでは、少なくともそんな様子はなかったぞ。…普段通りのあいつだった。
再び何かを思い返すようにその人の目は宙を見つめ、そして急に真剣な目付きになった。
―…進藤と打ったよ。
―進藤と…!?それで…?
グラスに酒を注ぐが、飲まないでサイドボードの上に置く。それをじっと見つめている。
その表情を見て、何か不穏な予感が湧いた。進藤との対局の事が、もしかしたら
記事の事以上に彼に聞いてはいけない事であったように感じた。
―進藤は、…saiだ。
彼が発した言葉に思わず息を飲んで彼を見つめる。
―進藤の野郎…、オレが酔っていると思って油断してシッポを出したのさ…。
途中まではsaiであることを隠して打とうとしていたようだが、こちらもそれが
分からない程酔っちゃいない。勝機が見えたとたん別人のように豹変しやがった…。
酒ではなく、パソコンの机の上にあったタバコを取り、一本口に銜えて火をつけようとした。
火はつけられないままタバコは彼の指の中で折れた。


(18)
別人のように。…そう。saiは進藤の中に棲む限り無く別人に近いもう一人の進藤と
いうのが自分が出した結論だ。やはり彼もそこに行き着いた。
―進藤がsaiに成り変わる瞬間を見るような思いだったよ。…今まで
まんまと一杯食わされていた。
対局の結果は聞かなくとも予想がついた。クールに冷静に話をする彼が、
今ははっきりと何かに苛立ちそれを隠そうとしていなかった。
―君は気付いていたんだな…。
否定しなかったことが返事になった。その人は自嘲するように小さく笑い声をあげた。
―やはりそうなのか。オレももっと早く気付くべきだったな。やはり直接打ってみないと
わからないものだが。
―…他の人が見ている前で打ったのですか?
思わずそう尋ねてしまった。アッハッハッハッと、彼は声を上げて笑った。
―たとえ遊びでもタイトルホルダーが初段者に負けるところを人に見られちゃまずい…か。
幸運にも、オレの部屋で打ったのでね。芦原も居たがあいつはグーグー寝ていたよ。
そう言って再び酒のグラスを手に取る。
―タイトルホルダーとして向かえるどころか、あいつと、他のタイトルを争う事に
なりかねんと思った。そう考えたら…正直背筋がゾッとしたよ。…あれ以来、どんなに酒を
飲んでも酔えん…。…情けない話だな。
今まで決して人には、特にボクには弱さを見せないと思っていたあの人が、
こんなに無防備に本音を語っている姿が、…ボクにはまるで、
難破しかかっている船に見えた。ボクは静かにソファーから立ち上がった。


(19)
ようやくタイトルを掴んだ充実感とは裏腹に、周囲から想像できないプレッシャーが
予想していた形とそうでない形で彼を押し包んでいるのだろう。その最中の彼を目の当たりに
しているのだ。少しずつあの人に近付いた。あの人に触れたいと思った。
今までも彼はこうして人知れず一人でそれらの内なる魔物と戦い、そしてまた現実の戦場に
戻って行ったのだろう。だがそれは、必ず勝てるとは言い切れない戦いだ。
励まそうとか、慰めようとか、そんな思い上がった気持ちではなかった。
ただ触れたかった。何かに怯えているように見える、あの人の背中を摩りたかった。
―ずいぶんつまらん話をしてしまったな。…もう帰りなさい。
すぐ傍らに立つ自分を見ないであの人はそう言った。ボクは首を横に振った。
―帰りなさい。
無機質な言葉をくり返される。何重もの仮面の殆どを外しながら最後の一枚を外そうと
していない。それを奪いたかった。今ならそれができると思った。
―…ずっとあなたに会いたかった。
ボクの言葉にグラスを口に運びかけていたあの人の手が止まった。
―あなたに会いたかったんです。ただボクは、あなたに会いたかった。
暫く互いに動かなかった。ボクは手を伸ばし、あの人の顔から眼鏡を外し傍らに置いた。
―ボクは…、あなたが…
―…誤解しない方がいい。
…誤解…?彼の言葉の意味がすぐには分からなかった。
あの人は額を手で押さえて首を横に振ると逆にこちらに手を延ばし、ボクの髪に触れた。


(20)
こめかみから後ろへボクの髪をごく指先で、軽く梳いた。
―…君は、オレの中に父親の影を見ているだけだ。
驚いたように目を見開いて彼を見た。
―普通の子供のように得られない父親の愛情の替わりを欲しがっているだけだ。
―違う!ボクは、…ボクはもうそんな子供ではありません!
―帰りなさい。…今直ぐここから出て行った方がいい。
―ボクはあなたが…
言葉にする代わりにボクはその手を捉えて、自分の頬に触れさせた。
彼の冷ややかな目がボクを見据える。その目を見つめ返しながら捉えた彼の指に
キスをした。5本の指にそれぞれ順にゆっくりと、微かに震えながら。
最後の指にキスをし終わった時、彼のもう片方の手に顎を捕らえられた。
キスを受けた指が、頬を撫でた。ボクは、少し安心したように笑みかけた。次の瞬間、
被い被さってくるようにボクの唇はあの人によって塞がれた。
頬を撫でていた方の手が頭の後ろに回って押さえ付けられ、かじり取られるように
激しく唇を吸い取られた。体を硬くし突然始まった激しい行為に彼のなすがままになる。
一度離れて角度を変えて今度は長く続き、そうしてまた離れる。
それらが何度となくくり返され、ようやく行為が止まり、
やっとの思いで息を次いで肩を上下させ、顎を捕らえられたまま
ボクは恐る恐る目を開けた。鼻先が触れ合いそうな場所にその人の顔があった。



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